能「羽衣」(天女伝説)

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能「羽衣」は、天女伝説に題材をとった作品である。天女あるいは羽衣の伝説は、日本の各地に広く分布しており、また、歴史的に見ても、古風土記に取り上げられるほど古い起源のものである。能はそのうち、三保の松原に伝わる伝説を取り上げている。世阿弥の作という説もあるが、詞章や音楽的な要素から見ると、その可能性は低い。だが、明るくあでやかな能であり、正月を飾るものとしてよく演じられる。

天女伝説には、いくつかのパターンがある。最も多いのは、地上に舞い降りた天女が羽衣を隠されて天に帰ることができなくなり、人間と結婚するというものだ。子まで設けたりするが、最後には羽衣を見つけて帰るというものが多い。「鶴の恩返し」などは、このパターンの変形だと考えられる。

三保の松原に伝わるものには、人間との結婚というモチーフはない。羽衣を隠されて困った天女が、舞を披露することで羽衣を返してもらい、天に飛び返って行くという単純な話である。

この場合、羽衣は白鳥の羽を暗示している。天女伝説がヤマトタケルの白鳥伝説と結びついたのかもしれない。

舞台には、まず白龍という漁師とその連れ、合わせて三人が登場する。話の筋からして、白龍一人ですむものを、何故三人も登場させるのか、その理由はよくわからない。(三保地方の伝説では、伯梁という漁師が出てくるだけである)

漁師たちは無骨であるから、その謡ぶりも無骨さを感じさせるようなものでないと、迫力がない。彼らが無骨な謡を歌いながら松原のあたりを歩いていると、虚空から音楽が聞こえ、香りが四方に漂う。ただごとと思えないでいると、一本の松の枝に美しい衣がかかっているのを見つける。(以下、テキストは「半魚文庫」を活用)

ワキ、ワキツレ二人一セイ「風早の。三穂の浦回をこぐ舟の。浦人さわぐ。浪路かな。
ワキサシ「これは三保の松原に。白竜と申す漁夫にて候。
三人「万里の好山に雲忽ちにおこり。一楼の明月に雨はじめて晴れり。げにのどかなる時しもや。春のけしき松原の。浪立ちつゞく朝霞。月ものこりの天の原。及なき身のながめにも。心そらなるけしきかな。
下歌「わすれめや山路をわけて清見がた。はるかに三保の松原に。たちつれいざや。通はん たちつれいざや通はん。
上歌「風向ふ。雲の浮浪たつと見て。雲の浮浪たつと見て。釣せで人やかへるらん。待てしばし春ならば吹くものどけき朝風の。松は常磐の声ぞかし。浪は音なき朝なぎに。釣人おほき。小舟かな 釣人多き小舟かな。
ワキ詞「われ三保の松原にあがり。浦の景色を眺むる所に。虚空に花降り音楽聞え。霊香四方に薫ず。これ唯事と思はぬ所に。これなる松に美しき衣かゝれり。寄りて見れば色香妙にして常の衣にあらず。いかさま取りて帰り古き人にも見せ。家の宝となさばやと存じ候。

そこへ天女が現れ、衣を返してほしいという。ところが、白龍はあれこれと理屈を付けて、なかなか返そうとしない。

シテ詞呼掛「なうその衣はこなたのにて候。何しにめされ候ふぞ。
ワキ「これは拾ひたる衣にて候ふ程に取りて帰り候ふよ。
シテ「それは天人の羽衣とて。たやすく人間にあたふべき物にあらず。本のごとくに置き給へ。
ワキ「そも此衣の御ぬしとは。さては天人にてましますかや。さもあらば末世の奇特にとゞめおき。国の宝となすべきなり。衣をかへす事あるまじ。
シテ「かなしやな羽衣なくては飛行の道も絶え。天上にかへらんことも叶ふま
じ。さりとては返したび給へ。
ワキ「此御詞を聞くよりも。いよ/\白竜力を得。
詞「本より此身は心なき。天の羽衣とりかくし。かなふまじとて立ちのけば。
シテ「今はさながら天人も。羽根なき鳥の如くにて。あがらんとすれば衣なし。
ワキ「地にまた住めば下界なり。
シテ「とやあらんかくやあらんと悲しめど。
ワキ「白竜衣をかへさねば。
シテ「力及ばず。
ワキ「せんかたも。
地「涙の露の玉鬘。かざしの花もしを/\と。天人の五衰も目のまへに見えてあさましや。
シテ「天の原。ふりさけみれば。霞たつ。雲路まどひて。ゆくへ知らずも。
地下歌「住み馴れし空にいつしかゆく雲のうらやましきけしきかな。
上歌「迦陵頻迦のなれなれし。迦陵頻迦のなれなれし。声今さらにわづかなる。雁{かりがね}のかへりゆく天路を聞けばなつかしや。千鳥鴎の沖つ浪。ゆくか帰るか春風の 空に吹くまでなつかしや 空に吹くまでなつかしや。

最初は拾ったものだから自分のものだといい、相手が天女とわかると、国の宝にするのだといい、白龍の漁師らしい受け答えが面白い。だが、天女が途方にくれて嘆き悲しむ姿をみると、さすがの白龍も気の毒になり、返そうという。ほかの天女伝説では、漁師は天女の弱みに付け込んで、自分の妻にしてしまうのであるから、松原の白龍には男気があるといえる。

ワキ詞「いかに申し候。御姿を見たてまつれば。あまりに御痛はしく候ふ程に。衣をかへし申さうずるにて候。
シテ「あらうれしやこなたへ給はり候へ。
ワキ「しばらく。承り及びたる天人の舞楽。たゞ今こゝにて奏し給はゞ。ころもをかへし申すべし。
シテ「嬉しやさては天上にかへらん事をえたり。此悦にとてもさらば。人間の御遊のかたみの舞。月宮をめぐらす舞曲あり。たゞ今こゝにて奏しつゝ。世のうき人に伝ふべし さりながら。衣なくては叶ふまじ。さりとては先かへし給へ。
ワキ「いや此衣をかへしなば。舞曲をなさで其ままに。天にやあがり給ふべき。シテ「いや疑は人間にあり。天に偽なきものを。
ワキ「あら恥かしやさらばとて。羽衣を返しあたふれば。
シテ「少女は衣を着しつゝ。霓裳羽衣の曲をなし。
ワキ「天の羽衣風に和し。
シテ「雨に湿ふ花の袖。
ワキ「一曲をかなで。
シテ「舞ふとかや。

それでも、すぐには返さず、天人の舞楽を見せてくれとねだるところは、一曲の趣向である。逃げられてしまうのではないかと、白龍が疑うのに対して、天女は「疑は人間にあり。天に偽なきものを」といって、白龍を赤面させる。かくして、クリ、サシ、クセと続く舞は、駿河舞の始まりだと紹介される。

地次第「東遊の駿河舞。東遊の駿河舞。此時や始めなるらん。
地クリ「それ久堅の天といつぱ。二神出世の古。十万世界を定めしに。空は限もなければとて。久方の空とは。名づけたり。
シテサシ「しかるに月宮殿のありさま。玉斧の修理とこしなへにして。
地「白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。一月夜々の天乙女。奉仕を定め役をなす。
シテ「我もかずある天乙女。
地「月の桂の身を分けて 仮に東の。駿河舞。世に伝へたる。曲とかや。
クセ「春霞。たなびきにけり久かたの。月の桂も花やさく。げに花かづら色めくは春のしるしかや。おもしろや天ならで。こゝも妙なり天津風。雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿。しばし留りて。此松原の。春の色を三保が崎。月清見潟富士の雪いづれや春のあけぼの。たぐひ浪も松風ものどかなる浦のありさま。そのうへ天地は。何を隔てん玉垣の。内外の神の御末にて。月も曇らぬ日の本や。
シテ「君が代は。天の羽衣まれに来て。
地「撫づとも尽きぬ巌ぞと。聞くも妙なり東歌。声そへてかず/\の。笙笛琴箜篌孤雲の外に満ち/\て。落日の紅は蘇命路の山をうつして。緑は浪に浮島が。払ふ嵐に花ふりて。げに雪をめぐらす白雲の袖ぞ妙なる。
シテ「南無帰命月天子本地大勢至。
地「東遊の舞の曲。

クセに続いて長い序ノ舞がある。優雅な舞は、この能の見せ所ともいうべきもので、むしろ、これをメインに見せるために、羽衣の説話を借りたともいえるようである。

シテワカ「あるひは。天つ御空の緑の衣。
地「又は春立つ霞の衣。
シテ「色香も妙なり乙女の裳。
地「左右左。左右颯々の。花をかざしの天の羽袖。なびくもかへすも舞の袖。

最後を飾るのは「破ノ舞」である。

キリ地「東遊のかず/\に。東遊のかず/\に。その名も月の色人は。三五夜中の空に又。満月真如の影となり。御願円満国土成就。七宝充満の宝を降らし。国土にこれを。ほどこし給ふさるほどに。時移つて。天の羽衣。浦風にたなびきたなびく。三保の松原浮島が雲の。愛鷹山や富士の高嶺。かすかになりて。天つ御空の。霞にまぎれて。失せにけり。

以上、筋はいたって単純で、何ということもない。文面からは伺うことができないが、軽快な謡とそれに乗った長い舞がこの能の命である。祝祭的な雰囲気を盛り立てるのに適した、舞尽くしの能であるといえよう。


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