飢人投身事(太平記の世界)

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太平記の時代は、日本の歴史のうちでも、まれに見る動乱の時代であった。権力をめぐる争いが全国規模で展開されたと同時に、古い秩序が瓦解し、人々の生活基盤ががらりと変わりつつあった。このような世にあっては、勝ち組、負け組みの差が歴然となり、人は勝ち残ろうと欲すれば、悪党たちのようにたくましくならないではおれなかったろう。

度重なる戦乱のうちにも、その多くは都を舞台とするものであったために、宮殿はじめ諸司・百官の館も焼けうせ、都は廃墟同然となることもあった。新たに主人となった武士の屋形のほかは、在家一宇も続かずといったありさま。都に生活するすべを失った人々は、都を捨てて遠国に落ち延びるほかはなかった。

こんな様子を、太平記は次のように描いている。

―角て事の様を見聞に、天下此の二十余年の兵乱に、禁裏・仙洞・竹苑・枡房を始として、公卿・殿上・諸司・百官の宿所々々多く焼け亡て、今は纔に十が二三残りたりしを、又今度の東寺合戦の時、地を払て、京白川に武士の屋形の外は在家の一宇もつゞかず。離々たる原上の草、塁々たる白骨、叢に纏れて、有し都の迹共不見成にければ、蓮府槐門の貴族・なま上達部・上臈・女房達に至るまで、或は大井、桂川の波の底の水屑となる人もあり、或は遠国に落下て田夫野人の賎きに身を寄せ、或は片田舎に立忍て、桑門、竹扉に住はび給へば、夜るの衣薄して暁の霜冷く、朝気の煙絶て後、首陽に死する人多し。

古代の王権を復活しようとする後醍醐天皇の思惑とは裏腹に、動乱の結果最も打撃を受けたのは、公家を始めとした古い秩序の体現者たちであったが、わけてもそれらの公家たちに仕えた形の下級官人たちの身の上には、すさまじいものがあった。彼らは官僚として都に暮らす間に、世を生き抜くたくましさ、世知辛さを身につける暇もなく、我が身に降りかかる不幸を如何ともなしえないままに、ただただ朽ち果てていくほかないような者もあった。

太平記は、一下級官人の身に起こった悲惨を描くことで、こうした無力な人々の運命に、鎮魂の鐘を鳴らしている。

―中にも哀に聞へしは、或る御所の上北面に兵部少輔なにがしとかや云ける者、日来は富栄て楽み身に余りけるが、此乱の後財宝は皆取散され、従類眷属は何地共なく落失て、只七歳になる女子、九になる男子と年比相馴し女房と、三人許ぞ身に添ける。都の内には身を可置露のゆかりも無て、道路に袖をひろげん事もさすがなれば、思かねて、女房は娘の手を引、夫は子の手を引て、泣々丹波の方へぞ落行ける。

―誰を憑としもなく、何くへ可落著共覚ねば、四五町行ては野原の露に袖を片敷て啼明し、一足歩では木の下草にひれ臥て啼き暮す。只夢路をたどる心地して、十日許に丹波国井原の岩屋の前に流たる思出河と云所に行至りぬ。

―都を出しより、道に落たる栗柿なんどを拾て纔に命を継しかば、身も余りにくたびれ足も不立成ぬとて、母・少き者、皆川のはたに倒れ伏て居たりければ、夫余りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見へたる内へ行て、中門の前に彳で、つかれ乞をぞしたりける。

―暫く有て内より侍・中間十余人走出て、「用心の最中、なまばうたる人のつかれ乞するは、夜討強盜の案内見る者歟。不然は宮方の廻文持て回る人にてぞあるらん。誡置て嗷問せよ。」とて手取足取打縛り、挙つ下つ二時許ぞ責たりける。

この男のような下級官人は、おそらく数多くいたのであろう。男はすべてを失って、生きるための才覚を持ち合わせず、さりとて道路に袖を広げることもできずに、何のあてもないまま丹波の方へ落ちていく。

途中、飢えのあまりに、「さりぬべき人の所と見えたる内」へ入って物乞いをしたのが運のつきになる。内より出てきたのは侍・中間十余人とあるから、おそらく土着の武士か、土豪の類であったろう。宮方の回文云々といっているから、南北朝の狭間にあって、日和見を決め込んでいた悪党の類であったかもしれない。男は彼らに疑われ、散々な拷問を受けることとなる。

この時期、権力が流動化して、治安を専らにするものが不在となり、方々で私的権力ともいうべきものが横行していた。男は、この私的な権力によって、私的な制裁を受けたのである。

―女房・少き者、斯る事とは不思寄、川の端に疲れ臥て、今や/\と待居たりける処に、道を通る人行やすらひて、「穴哀や、京家の人かと覚しき人の年四十許なりつるが、疲れ乞しつるを怪き者かとて、あれなる家に捕へて、上つ下つ責つるが、今は責殺てぞあるらん。」と申けるを聞て、此女房・少き者、「今は誰に手を牽れ誰を憑てか暫くの命をも助るべき。後れて死なば冥途の旅に独迷はんも可憂。暫待て伴はせ給へ。」と、声々に泣悲で、母と二人の少き者、互に手に手を取組、思出河の深淵に身を投けるこそ哀なれ。

通りがかりの人の言葉を信じて、世をはかなんだ妻子は、河の淵に身を沈めてしまう。やっと疑いが晴れて釈放された男が妻子のところに戻ってくると、冷たくなった亡骸のみが横たわっていた。何ともやる瀬のない結末である。

―兵部少輔は、いかに責問けれ共、此者元来咎なければ、落ざりける間、「さらば許せ。」とて許されぬ。是にもこりず、妻子の飢たるが悲しさに、又とある在家へ行て、菓なんどを乞集て、先の川端へ行て見るに、母・少き者共が著たる小草鞋・杖なんどは有て其人はなし。こは如何に成ぬる事ぞやと周章騒ぎて、彼方此方求ありく程に、渡より少し下もなる井堰に、奇き物のあるを立寄て見たれば、母と二人の子と手に手を取組て流懸りたり。

―取上て泣悲め共、身もひへはてゝ色も早替りはてゝければ、女房と二人の子を抱拘へて、又本の淵に飛入、共に空く成にけり。今に至まで心なき野人村老、縁も知ぬ行客旅人までも、此川を通る時、哀なる事に聞伝て、涙を流さぬ人はなし。誠に悲しかりける有様哉と、思遣れて哀なり。

この時代、このような親子が生きる道は、ほかになかったのか。まったくなかったとはいいきれない。多少とも知恵があれば、生きる糧はいくらでも見つけられただろう。だが、この男の場合は、下級官人としての世間知らずが、自らに災いを呼び寄せた。かりに、ここで死なかったとしても、どこかで野垂れ死んだであろう。あるいは、せいぜい土豪の譜代下人となって、奴隷の境遇に甘んじるしかなかったのではないか。


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