2007年2月アーカイブ

山上憶良の最晩年、おそらく死の前年と思われる天平五年(733)、遣唐使が難波の津から唐に向かって出発した。遣唐大使は多治比広成、皇親系に属する高官であった。その多治比広成が、出発を一月ほど先に控えたある日、憶良の屋敷をわざわざ訪ねてきた。かつて遣唐使の一員として唐に渡り、また、学識の深さでも聞こえていた憶良から、有益な情報を得ようとしたのだろう。

万葉集巻五に、「筑前の国司守山上憶良が、熊凝に為(かは)りて其の志を述ぶる歌」という、これも一風変わった歌が載せられている。序にあるとおり、相撲使という官人に従者として従い、京都に向かう途中死んだ若者がいた。その若者の志を哀れに感じた憶良が、彼に替って、その志を述べたという歌である。

万葉集巻五に、山上憶良の一風変わった歌が載せられている。「惑へる情を反さしむる歌」という。序にあるように、父母を敬はずして侍養を忘れ、妻子を顧みず、山沢に亡命する民を論難した歌である。

日本ほどではないかもしれぬが、西ヨーロッパ諸国でも、世俗化というか脱宗教化というか、教会離れの現象が進み、かつてのように教会に足を運ぶ人々はめっきり減ってしまったという。これに伴い、使われることのなくなった教会建築が数多く現れ、それらをどうするかが、ひとつの社会問題となっているらしい。

日本人が馬肉を食うようになったのは何時の頃からだろうか。古い記録が見当たらないのでよくはわからないが、信州の伊那地方や会津など馬の産地では、400年程前から食っていたらしい。東京の庶民についていえば、明治以降馬肉を食う慣習が広まったようだ。明治時代の浅草界隈には、馬肉を売る店が何軒もあったという。

信濃の更科は古来月見の名所だったらしい。これに何故か姨捨の悲しい話が結びついて、姨捨山伝説が出来上がった。大和物語に取り上げられているから、平安時代の前半には、人口に膾炙していたのだろう。今昔物語集も改めて取り上げている。能「姨捨」は、この説話を基にして、老女と月とを情緒豊かに描いたものである。

山上臣憶良には七夕を詠んだ歌があり、万葉集巻八にまとめて載せられている。人生の苦悩を歌い続けた億良にしては、めずらしく風月や伝説を詠んだものであるが、いづれも自発的に作ったものではなく、官人たちの宴の席で、求めに応じて歌ったものと思われる。だが、そこにも億良らしい側面がのぞいている。

山上億良が筑前国守として赴任して一年余り後、大伴旅人が大宰府の師(長官)として着任してきた。億良にとっては上官の立場である。旅人は億良よりは数年若かったが、高い家門の出であり、また教養も深いものがあった。その旅人と億良とは、やがて心から敬愛しあう関係になる。

万葉集の歌の世界には、人麻呂、赤人を筆頭にして、男女の愛を歌った相聞の歌が数限りもなくある。だが山上憶良は、他者のための挽歌は別にして、男女の愛を歌うことはなかった。そのかわりに億良は、子どもを思う歌を作ったのである。

山上、人麻呂、赤人を中心に花開いた万葉の世界にあって、他の誰にも見られない独特の歌を歌い続けた憶良は人麻呂のように儀礼的な歌を歌わず、赤人のように叙景的な歌をも歌わなかった。また、万葉人がそれぞれに心をこめた相聞の歌も歌わなかった。彼が歌ったのは、世の中の貧しい人たちの溜息であり、子を思う気持であり、老残の身の苦しさであった。

アメリカではいま、老人たちを対象にした性教育が盛んになっているそうだ。(老人にも安全なセックスを) 

能「国栖」は、壬申の乱に題材をとった物語性豊かな作品である。壬申の乱自体、古代の王権を巡る戦いとしてドラマ性を帯びた事件であったが、ことが王権にかかわるだけに憚り多いうちにも、この作品はその辺の事情を踏まえて、演劇的な構成に纏め上げられている。現代人にもわかりやすく、人気のある能の一つである。

秋瑾女史が日本で撮ったという肖像写真が残されている。和服姿に身を包み、きりりとした顔つきで正面をにらんだ彼女の手には短剣が握られている。秦の時代の刺客荊軻を愛し、自らも剣をとって胡(清朝)を倒さんと欲した女史には最も相応しいポーズといえる。

武田泰淳の小説「秋風秋雨人を愁殺す」は、その副題に「秋瑾女史伝」とあるように、清末の女性革命家秋瑾女史について、ドキュメンタリー風に描いた作品である。秋瑾女史を始め清末の革命運動家について殆ど知るところのなかった日本人は、この作品を通じて些かのことを知るに至った。

笠金村に、遣唐使に贈った歌がある。天平五年(733)年の作である。隋が滅びて唐になって以来、中国への朝貢の使節は遣唐使と名を変え、舒明天皇の二年(630)を第一回目として、天平五年には第十回目の遣唐使が派遣された。船団は竜骨をもちいない粗末な箱船四隻からなり、難波津から出発して瀬戸内海を進み、博多の津から玄界灘へと消えていった。

笠金村は、山部赤人とほぼ同時代か、あるいはやや先立つ世代の宮廷歌人である。赤人と同じように、柿本人麻呂に続く宮廷歌人として、元正、聖武両天皇の時代に儀礼的な歌を作った。その歌には、人麻呂に見られたような神話的な悠久さは薄まりつつあったが、それでもなお、天武持統両天皇の時代に確立した、古代王朝の泰平の響きがこだまのように反映してもいる。

万葉集巻三に、山部赤人が葛飾の真間の手古奈伝説に感興を覚えて詠んだ歌がある。手古奈はうら若い乙女であったが、自分を求めて二人の男が争うのを見て、罪の深さを感じたか、自ら命をたったという伝説である。赤人は、鄙の地にかかる悲しい話が伝わっているのに接して、哀れみの情を覚え、歌にしたものと思える。

先日、ロシア社会の閉塞的状況を分析したマイケル・スペクターの記事を取り上げた際、女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤの暗殺に強い衝撃を受けた。その時点での筆者は、この女性ジャーナリストについて知識を有していなかった。そこで改めて調べてみたところ、インターネット上に、タイムやガーディアンなど西側のメディアによる取材記事を散見した。ここではそれらをもとに、筆者なりのアンナ・ポリトコフスカヤ像を纏めてみた。

能「田村」は、坂上田村麻呂を主人公にして、清水寺創建の縁起物語と田村麻呂の蝦夷征伐を描いた作品である。観音の霊力によって敵を蹴散らす武将の勇猛さがテーマとなっており、明るく祝祭的な雰囲気に満ちた作品である。屋島、箙とともに、三大勝修羅とされ、祝言の能としても演じられてきた。

山部赤人には、恋の歌もいくつかある。それらの歌が、誰にあてて書かれたものかはわからないが、中には相聞のやりとりの歌も混じっていて、色めかしい雰囲気の歌ばかりである。赤人は、叙景の中に人間のぬくもりを詠みこむことに長けていたと同時に、人間の心のときめきを表現することにもぬきんでていた。

山部赤人は、儀礼歌を中心にして多くの長歌を書いた。それらの歌は、人麻呂の儀礼的長歌と比べると、荘重さというよりは、叙景の中に人間的な感情を詠みこんだものが多かった。そして、この叙景という点では、赤人の本領は短歌において、いっそう良く発揮された。赤人は、人麻呂の時代と家持の時代を橋渡しする過渡期の歌人として、短歌を豊かな表現手段に高めた人だったといえる。

山部赤人には、富士の高嶺を詠んだ歌がある。特に短歌のほうは、赤人の代表作の一つとして、今でも口ずさまれている。おおらかで、のびのびとした詠い方が、人びとを魅了する。万葉集の歌の中でも、もっとも優れたものの一つだろう。

山部赤人にも、柿本人麻呂同様旅を歌った長歌がある。おそらく、人麻呂と同じく官人としての立場で、地方の国衙に赴任する途中の歌と思われる。それも、上級の役人としてではなく、中級以下の役職だったのだろう。赤人は、儀礼歌の作者として宮廷の内外に知られていたから、旅にして作った歌も、それらの人々に喜ばれたに違いない。

山部赤人は、柿本人麻呂とともに万葉を代表する大歌人である。大伴家持に「山柿の門」という言葉があるが、これは人麻呂、赤人を以て万葉を象徴させた言葉だとされる。古今集の序にも、「人麻呂は赤人が上にたたむこと固く、赤人は人麻呂が下にたたむことかたくなむありける」と、赤人は人麻呂と並んで高く評価されている。とくにその叙景歌は、後の時代の人々に大きな影響を与え続けてきた。

昨年の11月、ロシア人でもとKGB工作員アレクサンドル・リトヴィネンコ氏が、ロンドンの病院で不可解な死に方をしたことは記憶に新しい。氏はチェチェンへのプーチン政権の介入を告発してことで、かねてよりプーチンから目の敵にされていたため、その変死は様々な憶測を呼んだ。

能「小鍛冶」は祝言性の高い切能の傑作である。わかりやすい筋書きに沿って、動きのある舞が華やかな舞台効果を作り上げる。囃子方と謡も軽快でリズミカルだ。全曲を通じて観客を飽きさせることがなく、現在でも人気曲の一つとなっている。始めて能を見る人でも十分に楽しめ、それだけに上演頻度も高い。

額田王は、万葉の女性歌人のなかでもひときわ光芒を放つ存在である。ただに女性らしき繊細さに溢れていたというにとどまらない。相聞歌における率直な感情の表出は、斬新なものであったし、また、当時はやりつつあった漢詩に対抗して、和歌にも叙景などの新しい要素を盛り込み、歌の世界を広げたともいわれる。北山茂夫は、彼女を評して、万葉の世紀の初期を代表する歌人であり、人麻呂、赤人へとつながる流れを用意したともいっている。

柿本人麻呂の死については、わからぬことが多い。もっともおだやかな見方としては、任地の石見において、下級官僚のまま死んだのではないかとする斉藤茂吉の説がある。茂吉は、考証を進めた結果、続日本紀にある記録を元に、慶雲四年(707)、石見の国をおそった疫病の犠牲になったのではないかと推論した。人麻呂四十代半ばのことである。



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