アンナ・ポリトコフスカヤの勇気ある生涯

| コメント(0) | トラックバック(0)

先日、ロシア社会の閉塞的状況を分析したマイケル・スペクターの記事を取り上げた際、女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤの暗殺に強い衝撃を受けた。その時点での筆者は、この女性ジャーナリストについて知識を有していなかった。そこで改めて調べてみたところ、インターネット上に、タイムやガーディアンなど西側のメディアによる取材記事を散見した。ここではそれらをもとに、筆者なりのアンナ・ポリトコフスカヤ像を纏めてみた。

アンナ・ポリトコフスカヤ (Анна Политковская;1958-2006)は、国連派遣の外交官の娘としてニューヨークに生まれた。ウクライナ系の両親はソ連官僚機構のエリートであり、裕福で将来性に満ちた人々だった。

アンナは、モスクワ大学でジャーナリズム学を専攻し、卒業後はジャーナリズムの世界に入った。1982年からイズヴェスチアで働き、その後、アエロフロートの社内雑誌の編集に従事した。アエロフロート時代は、自由に飛行機を利用できる特権により、国中隈なく旅したという。

1985年以降、ゴルバチョフの時代になると、ソ連は経済的に破綻していった。その時代、アンナはソ連の解体は間違った選択だと思ったこともあったが、ものを言う自由は、何物にも代えがたかった。イェリツィンの時代には、民主化は一層進み、また各共和国の自立性も飛躍的に高まった。そして、各民族の分離独立運動の動きが、ロシア共和国の内部にまで及ぶようになる。

1994年、イェリツィンはチェチェンの分離独立運動を粉砕するために、戦車を送り込んだ。第一次チェチェン戦争と呼ばれるものである。この戦争は2年の長期に及んだ。イェリツィンは内外から強い批判を浴びるに至り、ついに不名誉な撤退をせざるをえなかった。

その頃のロシアは、民主化の波に乗って、中小のメディアが雨後の筍のように現れては、自由な言論を競った。イェリツィンを政治的に追い詰めたのは、これらの力だったのである。

アンナも、1994年に、そうした中小メディアのひとつオープシチャヤ・ガジェータに移った。だが、この時代の彼女の活動は、あまりラディカルではなかったらしい。

1999年、第2次チェチェン戦争が始まると、アンナは俄然政治的な発言を強めるようになった。同じ年、ノーヴァヤ・ガジェータに移り、そこを拠点に、チェチェンで何が起きているか、その血なまぐさい実態をレポートするとともに、この戦争を引き起こしたプーチンを批判し続けた。

ガーディアン紙のインタビューに答えたものなどを読むと、彼女の取材活動は命がけであったらしい。2000年には、チェチェンのヴェデノ地方でロシアの諜報機関FSBに拘束され、三日間飲まず食わずの状態で監禁された。彼女は、捕らえられた直後に殺されないことが重要だと語っている。

2001年、アンナはロシア将校の犯罪的な人権侵害行為を暴いたために、その将校から命を付け狙われ、一時期ウィーンに身を隠さねばならなくなった。将校は後に逮捕されて、有罪の判決を受けた。

チェチェンで起きた人権侵害は、ロシア側によるもののほか、ロシアを後ろ盾にして成立したカディーロフ政権によるものもあった。

2002年、モスクワで、チェチェン人武装グループによる劇場占拠事件が起こった。このときアンナ・ポリトコフスカヤは仲介役を買って出たが、進展のないまま当局が劇場に突入、武装グループ41人が死んだほか、100名以上の観客が巻き込まれて死亡した。

2004年には、チェチェンの隣国オセチアのベスランにおいて、チェチェン人武装グループが学校を占拠し、生徒と父母1000人以上を人質に取る事件が起こった。このときにも、アンナ・ポリトコフスカヤは武装グループの説得のため現地入りしようとしたが、オセチアに向かう飛行機の中で毒をもられ、意図は実現しなかった。結局、この事件においても、当局が学校に突入、1000人以上の死傷者を出す大惨事となった。

これらの事件は、チェチェンの過激派に対する内外の批判を高め、プーチンの断固たる態度に支持が集まる一方、ポリトコフスカヤの立場を微妙なものにした。ベスラン事件以後も、チェチェンの過激派によるテロが頻発し、アルカイダなど国際的なテログループとの関係も取りざたされたために、チェチェンの独立派はいよいよ孤立を深めた。

こうした事情を背景に、ロシア政府とチェチェンのカディーロフ政権は過激派への弾圧を強化した。

アンナ・ポリトコフスカヤは次第に孤立するようになり、気違い女と罵られながらも、チェチェンで何が起きているかを報道し続けた。

その姿勢は、西側では勇気あるジャーナリストと称えられる一方、プーチン政権には目の敵にされた。プーチンにとっては、チェチェンの独立派はアルカイダ並みのテロリストに過ぎないのに、彼らに対する弾圧を、アンナ・ポリトコフスカヤは人権侵害だと叫び続けたからである。

アンナ・ポリトコフスカヤの死の真相については、いまだに明らかにされていない。その死について感想を求められたプーチンは、そっけない答えを返しただけだった。


関連リンク: 日々雑感

  • クレムリン株式会社:プーチンのロシア

  • 結婚に見る階層格差:アメリカの場合

  • 男の更年期障害

  • 吊るしのテクニック:残虐な絞首刑?

  • ペンギンの愛と川嶋あいの歌

  • ワーキング・プア(平成の経済難民)





  • ≪ クレムリン株式会社:プーチンのロシア | 世界情勢を読む | ヨーロッパの古い教会レストランに変身 ≫

    トラックバック(0)

    トラックバックURL: http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/108

    コメントする



    アーカイブ

    Powered by Movable Type 4.24-ja

    本日
    昨日

    この記事について

    このページは、が2007年2月10日 17:09に書いたブログ記事です。

    ひとつ前のブログ記事は「能「田村」(坂上田村麻呂と清水寺縁起)」です。

    次のブログ記事は「真間の手児奈伝説:山部赤人と高橋虫麻呂」です。

    最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。