2007年3月アーカイブ

先稿「遺伝子が語る人類の進化」において、我々現代の地球人の直接の祖先は、89,000年前のアフリカの草原に、少なくとも4,000人いたということを確認した。彼らが言語を話していたか、その前提としてシンボルを操る高度な精神的能力を有していたかについては、詳細はわかっていない。だがその可能性は高いと思われる。

陶淵明の小品「五柳先生伝」は、長らく陶淵明の自叙伝であると信じられてきた。これには、宋書隠逸伝の次のような記述が影響したといわれる。「潛少くして高趣あり,嘗て《五柳先生傳》を著し、以て自ら況す」

大伴家持は、天平18年(746)越中国守に任命された。時に29歳である。家持はすでに宮内少輔という地位に昇進していたが、越中の国は当時としては大国であり、そこの国守になることは決して左遷ではなかったろう。だが、若い家持にとっては、天ざかる鄙へ行くことは不本意なことであったようだ。彼は妻を伴わず、単身赴任している。

大伴旅人が死んだ時、子の家持はまだ14歳に過ぎなかった。家持は妾腹の子ではあったが、聡明だったのであろう、旅人は家持が小さい頃から後継者と定め、大宰府にも伴って行って、自ら教育に当たった。旅人が死んだことで、家持は最大の後ろ盾を失うこととなったが、大伴家の当主として、それなりの自由を享受するようにもなった。

フランソア・ヴィヨンの主著は、30歳ごろに書いたとされる「遺言の書」Le Testamentである。それ以前に書いた詩集にも、Le Testamentと名付けたので、区別するために、主著のほうはGrand Testament、以前のものをPetit Testamentと呼び分けている。日本語では、Petit Testamentのほうは、普通「形見分けの書」と訳している。

フランソア・ヴィヨン “François Villon;1431-1463?”は、ジャンヌ・ダルクがルーアンで火炙りにされた年に、パリで生まれた。フランスはまだ中世の世界を脱しておらず、国土も完全には統一されていなかった。こんなフランスにあって、フランソア・ヴィヨンは無頼と放浪の短い人生を送った。その作品は詩人の人生を映し出して、荒々しい妖気を放つ。闇を突き抜けた閃光のようでもある。

人類学者たちは、骨の化石を頼りに人類の進化を推測してきた。その結果わかったことを、聖書の表現を用いてあらわすと、チンパンジーと人類の共通の親から、まずアウストラロピテクスが生まれ、アウストラロピテクスはホモ・ハビリスを生み、ホモ・ハビリスはホモ・エレクトゥスを生み、ホモ・エレクトゥスから我々の直接の祖先たるホモ・サピエンスが生まれた。

現在狂言界で活躍している家は、大きく分けて大蔵流の山本派、茂山派、和泉流の三宅派、名古屋派である。二流四派ともいわれる。

大伴旅人は大宰府に赴任するに際して、老妻を伴った。すでに60を越していた老大官にとって、この旅は人生最後のものになるかもしれなかった。長年連れ添ってきた妻と、いたわりあいたい気持ちがあったのだろう。この妻に子はなかった。家持は庶腹の子である。旅人はこの旅に、家持をも伴っている。

万葉集巻五に、「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」が、漢文風の序とともに一括して収められている。天平二年正月、大伴旅人は管下の国司や高官を招いて宴を開いた。その時に、出席したものたちがそれぞれに、梅を題にして歌を詠みあった。この風雅を愛する大官を囲んで、宴が自然と歌会に発展したのかもしれない。

日本家族計画協会が、先週ショッキングな報告を発表した。16歳から49歳までの男女を対象にアンケート調査を実施したところ、最近一ケ月以上セックスしたことがない者が39.7パーセントもあったというのだ。結婚している男女でさえ、34.6パーセントもあるという。一月以上セックスしない者は、一年間セックスしない可能性も高いから、この数字は非常に深刻な意味を持っている。

酒を讃むる歌で、洒脱さを遺憾なく発揮した大伴旅人は、万葉の歌人たちの中でも、どことなく浮世離れした、独特の感性を歌い上げ、この国の詩歌の歴史に清新な風を吹き込んだ。その感性は、世の中とそこに生きる己を、遠くから距離を置いて、突き放すように見ているところがある。旅人以前の日本人たちには決して見られなかったものだ。

大伴旅人の作の中でもとりわけ名高いのは、酒を讃めた歌である。万葉集巻三に、億良、満誓の歌に挟まれたかたちで、十三首が並べられている。

山上億良が多感な老官人だったとすれば、大伴旅人には風流な大官という趣がある。旅人は名門大伴氏の嫡男として生まれ、父親同様大納言にまで上り詰めた。人麻呂や億良とは異なり、古代日本の貴族社会を体現した人物である。そのためか、大伴旅人の歌にはおおらかさと、風雅な情緒が溢れている。

ガブリエル・ガルシア・マルケスはフィデル・カストロの親しい友人として知られている。「百年の孤独」と並ぶ彼の代表作「族長の秋」は、カストロのイメージに満ちているともいわれる。

日本神話は、八世紀初頭に成立した古事記、日本書紀を中核にして、諸国の風土記の記述などを包み込んだ形で今日に伝えられている。日本の国の成り立ちと神々の系譜、そして天皇による支配の正統性を、きわめて体系的に描いたものである。世界中にある神話の中でも、イデオロギー性の強いものといえるが、同時に日本民族の世界観の原点というべきものが、色濃く反映されてもいる。

能は日本人が世界に誇りうる古典芸能である。既に14世紀には完成の域に達していたから、600年以上もの歴史を有する。

アメリカ人の夫婦仲のよさは世界中に知れわたっている。可能な限り行動をともにし、寝るときも一緒だ。マスターベッドルームとそこに置かれた大きなダブルベッドは、アメリカの最もアメリカらしいライフスタイルとして、日本を含め世界中の進歩的な男女の模範となってきた。

アメリカの2月から3月にかけてはアーモンドの開花シーズンだ。桜に似た花を咲かせ、夏には実がなる。アメリカ人が最も好む木の実の一つだ。この実をならせるための受粉の作業には、蜜蜂が大いに活躍する。今では、商業用のアーモンドの殆どが蜜蜂の世話によって、受粉するのだという。ところが今年、その蜜蜂たちが大量に消えているというニュースが全米を賑わせた。

狂言は歴史的には能とともに歩んできた。現在では、能と狂言を合わせて能楽と呼び習わしているが、そう称されるようになったのは明治時代以降のことで、徳川時代以前には申楽と呼ばれていた。明治政府が外国人をもてなす演目として申楽を選んだ際、名称が風雅に欠けるというので、能楽の字をあてたのである。

フランソア・ヴィヨンの詩は、日本では鈴木信太郎の訳によって広く知られるようになった。岩波文庫にも収められているから、簡単に接することができる。分けても有名になったのが「昔の美姫の賦」である。「さはれさはれ去年の雪いまはいづこ」と繰り返されるルフランが、この詩人の神秘的なイメージを、日本人の間に形成するに一役買った。

今では伝説の歌手となった黒人女性ジャズシンガー、ビリー・ホリデイ ”Billie Holiday;1915-1959” は生涯黒人であることにこだわり続けた。ビリー・ホリデイが生きた20世紀前半、アメリカは人種差別の横行する社会であり、黒人は人間とはみなされなかった。南部を中心に、白人の黒人に対する差別は激しいものがあり、時には反抗する黒人をリンチにかけて吊るすことが、当然のことのように行われていた。

アルチュール・ランボー“Arthur Rimbaud;1854-1891”ほど、フランソヴィヨンを深く理解し、その作風を自分の創作に取り込んだ詩人はいなかった。この早熟の天才が、どこから豊かなイマジネーションを得たかを探っていくと、そこにはフランソア・ヴィヨンの巨大な影響があったと思われるのである。

フランソア・ヴィヨン” François Villon;1431-1463?”の生涯は、「無頼と放浪の詩人」という名に相応しく、さして長くもないと思われるにかかわらず、この世の秩序からはみ出たランチキぶり、喧嘩やちっぽけな犯罪、そして追放や懲役といった不名誉な事柄で満ち満ちている。

山上憶良

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山上憶良は、万葉の歌人のなかでもひときわ異彩を放っている。人麻呂のような相聞歌や赤人のような叙情性豊かな歌を歌う代わりに、貧困にあえぐ人の叫びや、名もなき人々の死を歌い、また子を思う気持ちや自らの老いの嘆きを歌った。それらの歌には、きわめて人間臭い響きがある。

山部赤人

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山部赤人は、柿本人麻呂と並んで万葉集を代表する歌人である。人麻呂より人世代後の、平城京時代初期に活躍した。その本領は、人麻呂同様宮廷歌人だったことにある。元正、聖武天皇両天皇に仕え、儀礼的な長歌を作った。大伴家持は、柿本人麻呂、山部赤人を並べ立てて「山柿の門」という言葉を使ったが、これは宮廷歌人としての、荘厳で格式の高い歌風をさしたのだと思われる。

当ブログではこれまでに、日本のワーキング・プア、アメリカの階層格差、アラブ世界の若者の結婚難などを取り上げてきた。これら格差の問題は、いづれも社会の隙間に生じた病理現象だが、放置しておくと国の未来を危うくする、厄介な問題である。

世界中の産業活動が排出する二酸化炭素によって、地球の温暖化が進んでいることは、近年になって危機感をもって論じられるようになった。また我々普通の人間でも、頻発する気象の異常やその結果としての災害の多発に接して、問題の深刻さをようやく気づくようになった。

能「弱法師(よろぼし)」は、難波の四天王寺を舞台にして、盲目の乞食俊徳丸と、故あって俊徳丸を捨てた父親との、再会と和解を描いた作品である。

宋書は南斉の沈約が著した六朝時代宋の正史である。斉の武帝に命ぜられて編纂を開始し、完成したのは梁の時代に入ってから、本紀10巻、列伝60巻、志30巻の計100巻からなる。そのうち列伝第53隠逸伝の部に、陶潜(陶淵明)の記事がある。

陶淵明は、南朝晋の興寧三年(365)に生まれ、宋の元嘉四年(427)に死んだ。その生きた時代は、南北朝時代の初期、東晋時代の後半から宋への移り変わりの時期である。この頃中国大陸は、南北に分離し、北には五胡十六国といわれるような異民族国家が興隆しては消え、南には漢民族による国家が興った。隋の煬帝が再び中国大陸を統一する六世紀の末ごろまで、中国南部には五つの王朝が交代するが、これと三国時代の呉を併せて六朝時代とも呼ぶ。

柿本人麻呂

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柿本人麻呂は、万葉歌人のなかでも、最も優れた歌人であったといえる。その生涯については、わからぬことも多いが、持統天皇の時代に、宮廷歌人として多くの儀礼的な歌を作ったことを、万葉集そのものが物語っている。その歌は、古代の神話のイメージを喚起させて、雄大なものがある。

万葉歌人のなかでも、山上憶良ほど生に執着し、命の尊さにこだわったものはない。その思いは、時に路傍に横死したものへの同情となって現れ、時に貧窮問答歌における人へのいたわりとなって現れ、また子を思う切実な思いと名って迸り出た。それらの歌には、人間というものへの、限りない慈しみの感情が表現されている。

万葉集巻五に、山上憶良の作「沈痾自哀の文」なるものが載せられている。題名の如く老病を嘆き、自らを哀れむ思いを、漢文調の文章でつづったものである。作中七十有四とあるから、死の直前に書かれたものであろう。憶良の人生の総決算ともいえるものだ。

中東のアラブ人たちにとって、結婚は人生の最大関心事であり続けてきた。アラブ世界においては、男は結婚して家庭を持つことによって、始めて一人前と認知される。独身の男は、いくつになっても一人前とはみなされず、社会的・経済的な不利益を被りやすいという。

先稿「クレムリン株式会社」のなかで、プーチン政権下の最近のロシア経済の好況ぶりについて触れた。この好況を支えているのは、石油や天然ガスなどの地下資源だ。ソ連時代とは異なり、ロシア政府は民間企業に活動の自由を与えているので、民間人の中から企業家が輩出し、億万長者も出現するようになった。一昔前には考えられなかったことだ。

能「蝉丸」の創作経緯にはわからぬことが多い。猿楽談義に「逆髪の能」として出てくるものが、「蝉丸」の原型であっという説がある。現行曲の「蝉丸」も、シテは逆髪になっているから、蓋然性は高い。そうだとすれば世阿弥以前からあった古い能ということになる。

万葉集巻五の最後に「男子名は古日を恋ふる歌」が載せられている。その詞書に「右の一首は作者詳らかならず、但し、裁歌の体、山上の操に似たる」とあるを以て、作者について色々の詮索もなされた。今日では、これは山上憶良の歌であるというのが定説となっている。筆者もそう考え、ここではそれを前提にして、話を進めていきたい。



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