2007年5月アーカイブ

フランソア・ラブレーの大年代記第四之書「パンタグリュエルの物語」は、フランソア・ヴィヨンの愉快ないたずらについて紹介している。(以下テキストは、渡辺一夫訳、岩波文庫版)

1462年の暮、フランソア・ヴィヨンは絞首刑の判決を言い渡された。昔引き起こしたナヴァールの事件を蒸し返されたためだとされている。すっかり観念したヴィヨンは、このとき「吊るされ人のバラード」を書いて、死に備えたこともあった。

フランソア・ヴィヨンは、シャルル・ドルレアン公と別れブロア城を出た後も放浪を重ね、コキャール党と呼ばれる盗賊団の一員となったようだが、1461年に捕らえられて、マン・シュル・ロアールの監獄にぶち込まれた。

元興三年(404)、陶淵明は母の喪があけたのを契機に再び仕官し、劉裕の幕下に入った。その年の三月、劉裕は桓玄を破って建康を回復し、鎮軍将軍となっていたのである。

連雨獨飮は元興3年(404)の作。陶淵明が母親の喪に服していた年で、同じ頃の作品に栄木や停雲などがある。

フラミンゴにもゲイのカップルがあるというので驚いた。しかもそのゲイのカップルが雌雄一対のフラミンゴのカップルから卵を奪い、雛をかえして育てているというから、二重の驚きだ。

先日、エストニアのタリン中心部に据えられていたソビエト兵士の像が撤去されたことをめぐり、ロシアとエストニアの間で険悪なムードが高まったが、その直後からエストニアの政府機関や公共部門に対する猛烈なサイバー攻撃が発生し、インターネット社会エストニアは深刻な機能不全に陥った。

禿頭を気にしている人々にとって朗報となりそうな話が飛び込んできた。ネズミを用いた実験で、毛の再生メカニズムが解明され、それがどうやら人間にも応用できそうだというのである。

狂言記は徳川時代の初期に刊行された狂言の絵入台本集である。万治3年(1660)に正篇、元禄13年(1700)に外篇と続篇、享保5年(1730)に拾遺篇が刊行されている。それぞれ50曲づつ、計200曲からなる。

フランソア・ヴィヨンは、1456年に引き起こしたあるトラブルがもとでパリにいることができなくなり、諸国を放浪するようになった。その旅の途中、文芸の保護者で名高いシャルル・ドルレアン公を頼り、ブロア城に立寄ったことがあった。

フランソア・ヴィヨンは、大小のテスタメント(「形見分け」と「遺言の書」)のほかに、雑詩篇と呼ばれる独立の詩篇十数編を残している。最も有名なものは「吊るされ人のバラード」である。そのほかに「逆説のバラード」とか「矛盾のバラード」とかいった、挑発的な題名の作品がある。

元興三年歳次甲辰(404)、陶淵明は不惑の年を迎えた。母親の喪が明けたこの年、東晋の政情は激変する。国を乗っ取って新しい王朝を開いていた桓玄が劉裕によって打倒され、5月には追い詰められて殺されるのである。

癸卯歳は元興二年(403)陶淵明39歳の年、母の喪に服してから3年目にあたる。前年東晋の政権を崩壊せしめて実権を握った桓玄は、この年の十二月東晋の安帝を廃して自ら皇帝を名乗り、国号を楚と称した。このような激動の時期にあって、陶淵明は田園に閉居することで、身辺に災いの及ぶのを避けることが出来た。

隆安五年(401)11月、陶淵明は母が死んだために服喪生活に入った。当時、親が死ぬと三年の間、公職を辞して喪に服すのが原則であった。陶淵明は図らずして、田園での静かな生活を楽しむことができるようになったのである。

水は融点以下の温度では固体(氷)、沸点以上の温度では気体(水蒸気)というのが、地球上での常識である。融点と沸点は気圧と相互関係にあるので、多少の揺れはあるものの、だいたい摂氏零度が融点の目安、同100度が沸点の目安となっている。氷は冷たいもの、水蒸気は熱いものというのが、我々地球人の持つイメージだ。

昨年(2006)の9月、アメリカの天文学者クィンブリー Robert Quimbly 博士がひとつの超新星を発見した。ペルセウス座の一隅に発見したこの天体を、博士は天文学のルールに従って、とりあえず2006GYと名付けたが、ただちに追跡研究にとりかかることはしなかった。

能「野守」は、大和国春日野に伝わる伝承をもとに、世阿弥が書いたものと思われている。鬼の能であるが、和歌をテーマにして上品な体裁になっている。

フランソア・ヴィヨンの詩集「遺言の書」は、186節の八行詩と20篇の独立の詩からなっているが、その最後に近い部分、「結びのバラード」の一つ手前に置かれているのが、「慈悲のバラード」である。

フランソア・ヴィヨンの詩集「遺言の書」のハイライトは、ヴィヨンが自らのために作った墓碑銘とロンドである。遺言がテーマなのであるから、自分の手で自分自身のための墓碑銘を書いておきたかったのであろう。墓碑銘にロンドを添えたのは、詩人としての矜持からと思われる。

陶淵明の詩「遊斜川」は、序に「辛丑正月」とあるところから、辛丑の年即ち隆安五年(401)陶淵明37歳のときの作である。斜川とは鄱陽湖沿いの地で、当時陶淵明が住んでいた尋陽とは対岸にあたっていた。

辛丑の歳といえば隆安五年(401)、陶淵明37歳。前年には桓玄に仕え、その任務を帯びて都に赴いたりしている。この年の前半には休暇をとって家でくつろいでいたようである。この詩は、休暇を終えて江陵へ赴く途上の作。(赴假は休暇を終えて帰任すること)当時江陵には、荊州刺史桓玄の本拠があった。

梶井基次郎の短編小説「交尾」を読んだ人は、一度はその趣向の斬新さに関心したに違いない。梶井基次郎という作家にはどことなく妙なところがあるから、こんな妙なものに着目したのだろう、と。

先稿「アーモンド栽培と蜜蜂」の中で、アメリカの蜜蜂が大量に消滅していることを紹介した。その時点では季節柄、アーモンド栽培への影響が懸念されたのであったが、蜜蜂の消滅はその後も止まるところをしらず、さまざまな農作物に深刻な打撃をもたらしつつあるという。

ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスと共通の祖先から生まれた。だから我々の直接の先祖たる古代の人類にとっては、兄弟に当たる種だとするのが今日の通説である。

能「鞍馬天狗」は、牛若丸が沙那王といった幼年時代を題材にして、大天狗が沙那王に武術を教え、平家を倒し源氏の再興を期するという内容の物語である。桜の季節を背景に、シテ(天狗)と子方(沙那王)がやりとりする光景は、色気を感じさせるものであり、これを男色の能と見る見方もある。

今日、パリジェンヌの話し上手は、世界中の女性の中でもとりわけ洗練されているとの評判であるが、既にフランソア・ヴィヨンの時代からそうであったらしい。ヴィヨンは、そのパリの女たちの舌先の見事さを、半分揶揄混じりで讃える歌を作っている。「遺言の書」第144節の後にある「パリ女のバラード」である。

ロンドは「輪舞曲」と訳される。ルフランを規則的に配して、回遊式の体裁に仕立てたものだ。西洋音楽の一ジャンルとして古くからあった。ヴィヨンの時代にも、小唄の一つの形式として、広く行われていたらしい。

陶淵明が劉牢之に仕えたとする説には異論があるが、35歳頃に、桓玄に仕えた事については、歴史的な事実として、ほぼ異論がない。

宋書隠逸伝の記事によれば、陶淵明が始めて職らしい職についたのは29歳のとき、江州祭酒というポストであった。地方教育を司る職だったらしい。だがこれはすぐに辞め、次に提供された州主簿というポストも断った。

チンパンジーとともに類人猿から枝分かれした最初の頃の人類が、主に何を食べていたのかについては、これまでよくわかっていなかった。カリフォルニア大学の研究チームは、アイソトープ技術を応用して、彼らが球根や根茎などの地下の植物を掘り出して食べていたと推論している。

先日は、ペガサス座の一隅に水が存在する可能性の高い惑星が発見されて、天文学者たちを喜ばせたが、今度は、人間の居住可能な惑星が発見されたそうだ。

能「花月」は喝食の美少年に芸づくしを演じさせるというもので、小品ながら変化に富み、祝祭的な雰囲気に満ちた華やかな能である。

母親の次に、ヴィヨンが選んだ遺贈の相手は昔の女。ヴィヨンの女遍歴については、色々と説がある。ヴィヨンのはじめて引き起こしたトラブルは女が絡んだものだったし、放浪の身となるにあたって決定的となった事件にも女がからんでいた。

「遺言の書」第89節の後に、ヴィヨンは母のためにつくったバラードを載せている。ヴィヨンの遺言は、まず天使に宛ててなされた後、父とも仰ぐ叔父ギヨームに移り、そして母へと向かうのであるが、母のためにヴィヨンが残したものは、聖母ノートル・ダームに捧げられたバラードなのであった。

陶淵明は、29歳にして長男の儼が生まれたとき、「命子」と題した詩一篇を作り、始めて子を得た喜びと、子の将来への期待を歌った。その父親としての情は、時空を超えて人々の胸琴に響くものがあった。

大伴家持

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大伴家持は、万葉集の編集者として擬せられているとともに、自身も偉大な万葉歌人の一人であった。



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