かつて20世紀初頭における世界の知的運動をリードしたバウハウス。そのワイマールとデッサウの校舎群が世界文化遺産に登録されたのは1996年のことであった。以来、長らく放置されてきたこれらの校舎群の修復作業が進められ、このたびバウハウス・ミュージアムとして一般公開される運びとなった。
バウハウスは第2次世界大戦後のワイマールの自由な雰囲気を背景に、1919年ヴァルター・グロピウスによって開設された。モダニズム建築の中心として意図された学校であったが、ワシーリー・カンディンスキーやパウル・クレーらの斬新な芸術家も参加して、建築にとどまらず造形芸術の各分野において、先進的な実験の場となった。20世紀初期における、アヴァン・ギャルド運動の牙城ともいうべき様相を呈したといえる。
1925年にワイマールからデッサウに移転すると運動の精神は一層花開いた。それは一言で言えばコスモポリタニズムであり、世界共通のモダニズム的建築様式を追求することから、世界の平和と協調をもたらそうとする精神であった。
しかし、ナチズムが台頭し、狭隘な民族主義の精神が蔓延してくるに従い、バウハウスの運動は攻撃の的となっていった。グロピウス自ら設計したバウハウス校舎のデザインは、デッサウの当局からは伝統的な景観を破壊するものだといって批判され、ナチスはそれを“非ドイツ的で”、“ボルシェヴィズム”に毒されたものだと攻撃した。グロピウスの後を継いだ2代目校長ハンネス・マイヤーがコミュニストだったことも、この攻撃に拍車をかける原因となった。
こうして1933年、バウハウスは短い生涯を閉じることとなったが、その精神は世界中のモダニストたちに受け継がれたといってよい。
ナチスが崩壊しコミュニズムの時代になっても、バウハウスは復興されることがなかった。その斬新な校舎群は長らく放置されたままに置かれたのである。
世界文化遺産に指定されたことを契機に、2000年以降建物群の修復が行われてきた。それ以来毎年80,000人前後の見学者が訪れ、20世紀の知的空間ともいえるこの建物群を観察しているという。
装いを新たにしたミュージアムは、バウハウスの中心テーマだった建築よりも、学校の研究精神に主な光を当てているという。様々な造形分野を通ずる、教師と学生との自由な関係、教育と生産との融合といったテーマである。
陳列品の中には、ヴィルヘルム・ワーゲンフェルトの作品「バウハウスのランプ」、マルセル・ブロイヤーの「ワシーリーの椅子」、マリアンナ・ブラントの有名な「灰皿コレクション」などが含まれている。
また、カンディンスキーが1926年に発表した「平面上の点と線」のテクストや、クレーが製本、ステンドグラス、刺繍のデザインなどを教えた教室も公開されている。
見物者たちは、これらのモチーフを通じて、20世紀初頭に花開き、やがて政治的に抑圧された知的空間について、はるかな思いをいたすことになろう。
関連リンク: 日々雑感
コメントする