志貴皇子(万葉集を読む)

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志貴皇子は天智天皇の皇子であったために、壬申の乱以後は皇位継承から外れた傍系にあった。それでも、温和だったらしい人柄が天武、持統両天皇に評価されたのか、宮廷においては、異母兄弟の川嶋皇子とともに厚遇されたようである。

万葉集には、志貴皇子の歌が6首載せられている。いづれもすがすがしい感じがする秀作であるので、ここではそのすべてを、万葉集掲載の順序に従って読み進んでみよう。


―明日香の宮より藤原の宮に遷居せし後に、志貴皇子の作らす歌
  采女(うねめ)の袖ふきかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(51)

万葉集巻一にあるこの歌は、藤原遷都の後に詠まれたとあるから、持統天皇八年より後の時代の歌である。

一種の意は、飛鳥に来てみれば、いまは都も遠く移り、かつて都であったなら采女らの袖を吹き返したであろう明日香風も、ただ空しく吹くのみであることよ、というものである。

一種の回顧の歌であると思われるが、皇子が何を懐かしんで回想に耽っているのか、歌からはわからない。

最初の段に「采女の」」とあるのは言葉のすわりが悪いようにもみえる。そこでこれを「タオヤメノ」と訓ずるものもあった。茂吉はいっそ「うねめらの」と読んではどうかと提案している。

―慶雲三年丙午、難波宮に幸(いでま)す時、志貴皇子の作らす歌
  葦辺ゆく鴨の羽交(はがひ)に霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ(64)

慶雲三年〔706〕、文武天皇が難波宮に行幸したときの歌である。難波の葦辺をゆく鴨の羽交に霜が降るほど寒い日には、しきりに大和のことが思い出される、鴨でさえ夫婦仲良く連れ添っているのだから、という意であろう。

―志貴皇子の御歌一首
  むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの山の猟師(さつを)に逢ひにけるかも(267)

ムササビが木末の間を飛びまわっているうちに、山の漁師に捕らえられてしまったことよ、という意である。

とらえられたとあるので、これは何か不遇なことを寓意しているようにも受け取れるが、そこまで深読みせず、ムササビの歌として素直に読むべきだと、茂吉はいっている。

―志貴皇子の御歌一首
  大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜(こよひ)逢へるかも(513)

いつ会えるかと待ち望んでいたあなたに、今宵こそは会うことが出来ると、逢瀬の喜びを歌ったものである。「いち柴の」は「いつしかと」にかかる序詞であるが、同時に実景をも表現しているので、叙景と詠嘆が重なり合ってハーモニーを醸し出している。

―志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
  石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(1418)

この歌は志貴皇子の歌の中でもことのほか有名なもので、この歌あるがために、歌人としての志貴皇子の名が残ったというほどのものである。歌の意は平明であるので、解説を要しないであろう。

―志貴皇子の御歌一首
  神(かむ)なびの石瀬(いはせ)の杜のほととぎすならしの岡にいつか来鳴かむ(1466)

これは、「いつか来鳴かむ」といって、ホトトギスが来るのを待ちわびる歌である。単純なようだが、季節に事寄せて自然の営みに感情移入するところは、素直ですがすがしい気持ちのする歌である。

志貴親王は元正天皇の霊亀元年〔715〕に亡くなった。(続日本紀には霊亀二年とある)そのときに笠金村が作った挽歌が万葉集巻二に載せられている。

ー霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王薨(すぎま)せる時、よめる歌一首また短歌
   梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 幸矢(さつや)手挟み
   立ち向ふ 高圓山に 春野焼く 野火と見るまで
   燃ゆる火を いかにと問へば 玉ほこの 道来る人の
   泣く涙 霈霖(ひさめ)に降れば 白布の 衣ひづちて
   立ち留まり 吾に語らく 何しかも もとな言へる
   聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き
   天皇(すめろき)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光そ
   ここだ照りたる(230)
短歌
   高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに(231)
   御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに(232)
右ノ歌ハ、笠朝臣金村ノ歌集ニ出デタリ

高圓山で行われた皇子の火葬を詠んだものであろう。道来るひとさえ 涙を流して死を悼んだとあるから、皇子がいかに人々に慕われていたか、その様子が伺われる。

志貴皇子には、何人かの男子があった。その中から白壁王が後に藤原氏に担がれて王位につき光仁天皇となった。現代に伝わる天皇家はこの光仁天皇の末裔であられる。


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このページは、が2007年7月15日 17:17に書いたブログ記事です。

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