高市黒人:旅愁の歌人(万葉集を読む)

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高市黒人は柿本人麻呂のほぼ同時代人である。その生涯については、柿本人麻呂以上に詳しくはわかっていない。同族に高市県主がおり、壬申の乱に際して、飛鳥の地で神々の託宣を下したというから、神官の出であったと考えられる。県主はその功績により、天武から連の姓を授けられた。連は朝臣より下位の位であるから、高市連黒人は人麻呂より一層身分の低い官人だったと思われる。

万葉集巻一は人麻呂の歌と並んで高市黒人の儀礼的短歌二首を載せている。持統天皇が志賀の旧都を行幸したときに詠んだとされるものである。こんなところから、黒人は人麻呂同様持統天皇に仕えた宮廷歌人だったのではないかとの憶測がなされた。しかし、黒人には長歌が一篇も残されていない。もし彼が宮廷歌人だったのであれば、当然儀礼的長歌を作り、それらも万葉集に収められたはずである。

高市黒人はおそらく、身分の低い官人として、生涯を地方との往来に過ごしたのではないか。彼の歌に旅を歌ったものが多いことが、そうした考えを支持しているように思える。

巻一にある近江の歌は、たまたま機会を得て持統天皇に奉ったものと考えられる。そして持統天皇はこの歌が気に入ったのであろう。それ故にこそ、人麻呂の歌と並んで、万葉集の中でも格別の扱いを受けたのだろう。


―高市連黒人が近江の都の旧(あ)れたるを感傷しみよめる歌
  古の人に我あれや楽浪の古き都を見れば悲しき〔32〕
  楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも〔33〕

歌の意は、人麻呂のものと同じように、かつて持統天皇の父君天智天皇が君臨せられた志賀の都をみて、その過ぎ去った栄華と現前する寂れた風景を対照させるところにある。こうすることによって、行幸を彩ったに違いない懐古の情を引き立たせたのだと思われる。

黒人のこの歌は、人麻呂の歌とは違って、主観的な感情が一層よく表に出ている。そこが斬新である。単なる儀礼にとどまらぬ、人間的な息吹が伝わってくるからだ。

一首目にある古の人とは天智天皇の時代に志賀の都に生きていた人というほどの意味だろう。歌では、反語的に使われているので、黒人は自分が古の人だとはいっていない。

二種目にある国つ神云々は、黒人が神官の出であることを示唆しているようでもある。だがそこまで深読みせず、素直に歌の意を受け取るべきかもしれない。

  いづくにか船泊てすらむ安禮(あれ)の崎榜ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟〔58〕
右の一首は、高市連黒人。
  大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象(きさ)の中山呼びそ越ゆなる〔70〕
右の一首は、高市連黒人。

この二首も巻一に載せられている。一首目は海上に停泊する船の様子を叙景的によんだもの。安禮の崎は三河にあった地という、その沖を棚もない小さな船が漕ぎ渡っていたが、いまは日も暮れようとしているためか、静かに停泊していることよ、とそう歌っている。

二首目は大和にあって、呼子鳥のわたってくる様子を歌ったもの。呼子鳥とはカッコウのことだろうと思われる。

万葉集巻三は高市連黒人の覊旅の歌八首を載せている。さまざまな地名が出てくるところからみて、おそらく官人として諸国を旅する途中折々に詠んだものと思われる。

―高市連黒人が覊旅の歌八首
  旅にして物恋(こほ)しきに山下の朱(あけ)の赭土船(そほぶね)沖に榜ぐ見ゆ〔270〕
  作良(さくら)田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る〔271〕
  四極(しはつ)山打ち越え見れば笠縫(かさぬひ)の島榜ぎ隠る棚無し小舟〔272〕
  磯の崎榜ぎ廻(た)み行けば近江の海八十の水門(みなと)に鶴さはに鳴く〔273〕
  我が船は比良の湊に榜ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜更けにけり〔274〕
  いづくに吾(あ)は宿らなむ高島の勝野の原にこの日暮れなば〔275〕
  妹も我(あれ)も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる〔276〕
一本、黒人ガ妻ノ答フル歌ニ云ク、
  三河なる二見の道ゆ別れなば我が背も吾(あれ)も独りかも行かむ
  早来ても見てましものを山背(やましろ)の高槻の村散りにけるかも〔277〕

一首目は、旅をしてもの恋しい気持ちになっているところに、小船が沖のほうに漕ぎ渡っているのが見えたと歌う。旅愁が叙景とよく調和した歌といえる。三首目も同じような感慨を歌ったものである。

二首目と四首目は、鶴のなきわたるさまに己の旅の孤独を重ね合わせたものか。五首目、六首目は、旅をして夜を迎えた心細さのようなものが伺われる。これらの歌には、人麻呂にあったような旅の使命感のようなものは感じられず、一人の人間としての孤独な旅愁がただよっている。

こんなところから、筆者などは高市黒人を評して「旅愁の歌人」と呼びたい気持ちになる。

七首目は旅に向かおうとして妻との別れを悲しんだ歌であろう。この妻がどういう人であったかについてはわからない。また三河の地が、黒人の本拠であったのか、それとも赴任先の仮の住まいであったのか、それもわからない。

妻とのやり取りの歌は、別にもあって、やはり万葉集巻三に載せられている。

―高市連黒人が歌二首
  我妹子に猪名野(ゐなぬ)は見せつ名次(なすぎ)山角の松原いつか示さむ〔279〕
  いざ子ども大和へ早く白菅(しらすげ)の真野の榛原(はりはら)手折りて行かむ〔280〕
―黒人が妻(め)の答ふる歌一首
  白菅の真野の榛原往くさ来(く)さ君こそ見らめ真野の榛原〔281〕

大和のことが出てくるから、ここで歌われている妻は、先の三河の妻とは異なる女性と見てよいだろう。

以上、高市黒人の歌をひととおり味わってみると、そこには人間的な感情の繊細さが旅先の風景に事寄せて、きめ細やかに歌われている。黒人は人麻呂の同時代人だったとはいえ、その感性は赤人以後の世代に近いものがある。


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このページは、が2007年7月22日 12:13に書いたブログ記事です。

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