史記列伝は冒頭に伯夷伝を置いている。周の武王が武力を以て殷を討とうとしたのを、伯夷・叔斉は非暴力の立場から諌めた。しかしその声が聞き入れられなかったので、後に周の時代が到来すると、伯夷・叔斉はその世にあることを潔しとせず、首陽山に隠れ蕨を摘んで命をつないだ。
二人はついに餓死するが、その死に臨んで作ったというのが「采薇歌」である。
采薇歌
登彼西山兮 彼の西山に登りて
采其薇矣 其の薇を采る
以暴易暴兮 暴を以て暴に易へ
不知其非矣 其の非を知らず
神農虞夏 神農虞夏
忽焉沒兮 忽焉として沒しぬ
吾適安歸矣 吾適(まさ)に安くにか歸せん
吁嗟徂兮 吁嗟(ああ)徂かん
命之衰矣 命の衰へたるかな
西山とは首陽山をいう。陝西省にある山である。その山中で伯夷・叔斉は薇をとって命をつないでいる。周の武王は紂の暴力を倒すのに、自らも暴力を用いてその非を悟らない。だから我々はこのように姿を隠しているのだ。
神農虞夏は次々と没して聖人の世は去った。我々はどこに住めばよいのだろう。正義のない世の中は住みがたい。
神農とは、中国の神話に出てくる建国の聖人三皇の一人、虞夏は舜と禹をさす。舜は五帝最後の聖人で平和的な統治者としてのイメージがある。また禹は三皇五帝につづく理想的な統治者であり、治水によって中国を発展させたとされる。
これら聖人や理想的な統治者の持つイメージは、暴力によらない平和的な統治者だということだ。中国にはそのような平和主義が太古の昔から延々として脈づいている。暴力的な統治者は徳にかけるといって敬遠されたのである。
伯夷・叔斉の采薇歌はそのような中国人の歴史的な感情をうたったものであり、司馬遷がそれを列伝の冒頭に持ってきたのもうなずかれる。
なお、神農は、もともと農業の神であり、あわせて医薬や易者の神でもある。また音楽や商業の神でもあるとされている。どれもみな、平和を前提とした人間の営みである。
陳舜臣によれば、神農は日本の稲荷信仰と関係が深いという。稲荷も農業の神であるが、それは渡来人の秦氏が日本に持ち込んだのが最初だったのではないかと考察している。狐は中国においては神農信仰と結びついて、農業にかかわりが深いらしい。
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