不安が脳をとらえるとき:強迫観念の由来

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誰でも不安な気持ちに襲われることはある。それは何か不吉なことが起きるのではないかという予感であったり、大事なことをし忘れているのではないかという心配であったり、進むべき道を間違えているのではないかという懸念であったりする。こうした不安はしかし、生きていくうえで必要なものなのである。

痛みが傷の手当を促すように、不安は危険に対して人間を身構えさせる働きを持つ。全く不安にとらわれることのない人間は、重大な危険が身に迫っても、回避することができないだろう。

だが世の中には、不安の過剰に悩む人々もいる。例えば、家を出ようとしてガスを消し忘れているのではないかと思って舞い戻り、また家を出ようとすると今度は電気を消し忘れたのではないかと不安になる。こうした不安が次々と襲い掛かり、家を出ることができるまでに膨大な時間を費やしてしまう。このような人がおうおうにして存在するのだ。

このような人々の不安の実体をなしているのは、多くは強迫観念と呼ばれるものだ。強迫観念の嵩じたものは、強迫性障害 Obsessive Compulsive Disorder
と呼ばれ(強迫神経症とも呼ばれる)、人間の行動を著しく阻害する。

強迫性障害はこれまで、うつ Depression 、双極性障害(躁うつ病) Bipolar Disorder 、多動性障害 (ADHD)、自閉症 Autism そして統合失調症(分裂病) Schizophrenia など精神疾患との関連において考えられ、それらの疾患の背後にあるものとされてきた。しかしこれらの精神疾患を患っていなくとも、強迫性障害に陥ることはありうる。そのことを、最近の研究が次第に明らかにしつつある。

人間の不安には、脳の働きとその背後にある遺伝子情報とがかかわっている。脳の中で不安の感情を作り出す部位は、脳の中心部にある一対のアーモンド状の物質アミグダラ Amygdala である。これが中心となり、その周囲にある眼窩前頭皮質 Orbital Frontal Cortex ,尾状核 Caudate Nucleus ,視床 Thalamus との間に回路を結び、それらが連携をとりつつ一定の刺激に対して不安の感情を返す。

先ほども述べたように、刺激―不安の回路は人間の生存にとって必要なメカニズムである。ところが、この回路が必要以上に反応し、危険に対して鳴らし始めたベルがいつまでも鳴り止まない事態が起こることがある。これが強迫性障害と呼ばれるものの、脳科学的な解明である。

このベルを鳴らさせる刺激はグルタミン酸塩 Glutamate という物質によって伝えられる。この物質は刺激を送り届けるとすぐ消滅するのが自然であるが、場合によってはいつまでも消滅しないでベルを鳴らし続ける役目をする。

グルタミン酸塩は脳にとって有害であることが知られているので、この物質が必要以上脳内に残っていることは好ましくない。もしかしたら、それが原因で別の形態の精神疾患を引き起こすかもしれないのである。

このグルタミン酸塩の代謝を制御しているのは、第9染色体上の遺伝情報であることがわかってきた。恐らく人類の長い歴史の中で、危険に対して生き延びる知恵として、我々の遺伝子にビルトインされてきたのであろう。

強迫性障害は、成人においては男女同じ確率で現れるが、子どもにおいては男子のほうに多い。子どもの症状としては様々な形態のチックや、トゥレット症候群 Tourette Syndrome と呼ばれる異常な独り言が典型とされる。

治療法には、服薬と並んで暴露反応妨害法 Exposure and response prevention という一種の行動科学的方法が用いられる。これは患者をわざと刺激にさらし、それを正面から見据えさせることによって、乗り越えさせようとする方法である。

例えば潔癖症の人間にわざと汚れたものを運ばせる。患者はそのたびに手を洗わずにはいられなくなるが、これでもかこれでもかと反復し、平行してカウンセリングを重ねるうちに、次第に直っていく場合があるという。

人間の脳というものは、人間の最適な生存を確保するために、様々な機能を備えているものだが、時には脱線して、人間に異常な行動をとらせることもある。強迫性障害は、その一つの例なのだといえよう。

〔参考〕When worry hijacks the brain By Jeffrey Kluger : Time


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