人生の終末期をどう生きる

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人間誰しも穏やかに老い、尊厳の中で死を迎えたいと思うものだ。だが現実はなかなか厳しいものがある。日本人の寿命が延びて、80歳を超えて生きる人々が増えてきているのは無論喜ばしいことには違いないが、その人たちが余り不自由を感じず、楽しく生きているかというと、そうはいえないところがある。

自分が人生の終末期近くに差し掛かったときのことを思い描いてみよう。子どもがある人ならば、子どもたちは独立し、夫婦二人で暮らしている確率が高いだろう。子どものない人はなおさら、夫婦が互いを頼りにして、寄り添いあって生きているだろう。

夫婦ともに身体がきくうちは、何かと不便は感じながらも、何とか二人で暮らしていける。だが、一方が病気や怪我をするとどうだろう。

環境は一変する。人の手を借りないでは、介護を続けていくのはむつかしい。二人とも倒れたら困難は一層大きくなる。

片方が欠けると、残されたほうは一人暮らしに直面する。この時点で、子どもの家族と同居することを選ぶ人もいるだろうが、色々な事情があって、一人暮らしを続ける人も多いに違いない。だが、一人暮らしは身体がもっている間は何とか成り立つが、病気や怪我をすると、その困難は想像を絶するだろう。都会に住んでいる人より、農村部においてその困難の度は大きい。

今の日本の社会において、一人暮らしの老人が、人生の最後の局面で自立して生活する能力を失ったとき、その人にはどんな選択肢があるのだろうか。

子どものある人は、生涯最後の日々を子どもの手にゆだねるかもしれない。子どもの家族に気兼ねしながら、多少の不自由はあっても、自分の肉親と暮らすのであるから、これも一つの選択肢だろう。

子どものいない人や、事情があって子どもと暮らさない人は、どうだろう。金に余裕があり、また比較的運がよければ、老人ホームや介護施設に入るかもしれない。しかし、介護施設での生活が快適なものでありうるかどうか、それははなはだ心もとないだろう。金のない人や運に恵まれない人は、介護施設にも入れないから、不自由な一人暮らしを続けていくほかはない。

こうした孤独な一人暮らし老人は、今後の社会にますます増えていくものと思われる。この数年、老人の孤独死という現象が、社会問題として取り上げられるようになってきたが、その可能性を持った人は、今後爆発的に増えてくるのではないか。

日本は今後10年ほどの間に超高齢化社会に突入する。国中は老人たちであふれかえるであろう。その老人たちが人生の終末期を迎えたとき、彼らの生活をどのように支えていくか。このことは、日本という国の質にかかわる重大な問題として、国民のすべてにのしかかってくるであろう。

筆者などは、人生の最終局面を迎えたとしても、できうれば自分の家に住み続け、自活していきたいと思っている。しかし現在の日本の社会の仕組みの中では、なかなか難しいのはわかっている。人の手を借りるためには、介護保険制度があるが、これも完璧というわけにはいかぬだろうし、第一、超高齢化社会では、サービスの充実は巨大な負担につながって、若い世代との間で利害の対立が起こるだろう。

もし老人たちの間に相互扶助のネットワークがあって、成員それぞれが経験や技術を持ち寄り、互いに助け合うような仕組みができていたら、老後の生活はずいぶんと楽になるのではないか。

今の日本の仕組みでは、サービスは公的機関によって提供されるのが基本であり、それは国民の負担によってまかなわれる。一方で、負担を軽減するものとして、ボランティアの善意が期待されてもいる。しかし、このような仕組みは、国民の相当数が老人であるような社会においては、いずれ行き詰まりを見せるのではないだろうか。やはり老人たちが、自分たちのことはまず自分たち自身でするという姿勢を持つことが必要なのではないか。

こうした老人の相互扶助のネットワークは、決して実現困難なものではない。アメリカでは既に、そうしたネットワークが、地域社会の中のサブコミュニティとして出来つつある。先日の New York Times が、そうしたコミュニティを取り上げていたので、それをここで紹介したい。A Grass Roots Effort to Grow Old at Home By Jane Gross

ボストンのビーコン・ヒル地区には6年前に、老人たちをメンバーにした小コミュニティが誕生した。ここは一定の年会費を取ることを前提に、老人たちが様々なサービスを必要なときに受けられるようなシステムが確立されている。移動、家の修理、介添え、セキュリティなど様々なサービスが、電話一本で利用できる。しかもそれらは登録した会員たちによるものが殆どなので、料金は非常に低廉に設定されている。

会員は終末期を迎えた老人だけではない。60歳代前半の人々も多く含まれる。動けるうちはサービスを提供する側に立ち、動けなくなったらサービスを受ける側に立つ。そうした契約によって成り立っているのである。サービスの中には金融、法律、医療、リハビリなど専門的な分野のスペシャリストによるサポートも含まれる。メンバーの老人たちは、この相互扶助のサービスがあるおかげで、自分の家で自活していけるのである。

こうした小コミュニティは、最近になって全米に広がる勢いだという。

このことの背景には、アメリカが日本のような公的介護サービスのシステムを設けていないということもある。また、サービスを受けようとするものには、コミュニティへの移住やサービスへのある程度の負担が必要となるので、金を出せる人々に限られる、といった事情もある。必ずしも明るい話ばかりではないが、そこには日本にとっても参考になる部分があると思う。

日本でもこうした相互扶助のネットワークが整備され、それを通じて自立に必要な最低限のサービスが提供されるようになれば、老人の終末期の生活は格段と楽になるに違いない。またそれは介護保険への国民の負担も軽減する。会員たちはボランティアではなくある程度の収入と引き換えにサービスを提供するので、半ば自分の生きがいとして行うサービスの提供も長続きするであろう。

このネットワークは、責任を持って運営するスタッフを必要とする。国や自治体は、スタッフ育成への援助など、ネットワークを側面から支援することに専念したらいいと思う。

何事も他人まかせというのでは、これからの超高齢化社会は成り立っていかないだろう。自立した人々による、自立した生活基盤の整備が求められるのではないか。


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    このページは、が2007年8月25日 17:38に書いたブログ記事です。

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