木曽駒と夜明け前の旅

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老いて猶仲が良く、気が置けない友達は何者にも代えがたいものだ。ましてそんな友達と小さな旅に出かけ、温泉につかり杯を酌み交わす、これほど幸福な時間があるだろうか。

そんな仲の良い友達と四人して、今年も小さなドライブ旅行を楽しんだ。新宿から中央高速に乗り、伊那谷北部の駒ヶ根方面へ向かうというものだった。中に一人車の運転が無性に好きという男がいるので、運転は彼に任せ、筆者らはのんびりと景色を楽しめるというわけなのである。

一日目は、諏訪南インターで下りて高遠城址に立ち寄った。春は桜で有名なところだ。諏訪盆地を見下ろす小高い丘の上にあって、往昔は城を囲んで家臣の屋敷が並んでいたらしい。いまは丘一面に桜の木が植えられ、春の盛りには桜花爛漫たる風情をかもし出すのである。

その後高遠市内の壱刻という店で信州蕎麦を食った。信州の蕎麦にしては色は黒いが、味はなかなかのものである。ざるに盛られたそばの量は腹を満たすに十分だったのに、うまさにつられてお代わりしたほどだ。(二人で一ざるだったけれど)

宿は駒ヶ根高原にある二人静という旅館にとった。山の中の一軒宿だが、けっこうサービスが行き届いている。温泉はアルカリ単純泉で、神経痛や筋肉痛に効果があるという。筆者は折から50肩(もうすぐ60肩というべきだが)に悩んでいたので、何度も湯につかっては痛みを和らげたものだ。数日滞在して温泉治療を続ければ、顕著な効果が期待できるかもしれない。

入浴の合間には杯を酌み交わし、とりとめのない話に興じた。60も近くになり、半ば枯れかかった男たちだから、話題はいたって淡白なものだ。政治や社会を論じて口角泡を飛ばすということもない。互いに己が身辺を語って、しかも深くは干渉せず、清談というに近いのである。

二日目は木曽駒に登った。といっても駒ヶ根からロープウェーに乗って千畳敷までいっただけだから、厳密には木曽駒方面というべきかも知れない。

木曽駒は中央アルプスの主峰ともいうべき山である。筆者は昭和40年代の終わりごろ、この山に登ったことがあった。夏の初めの頃だったろう。金のない身だったので、新宿から夜行列車に乗って木曽福島まで行き、そこから北側の斜面を単独で登ったものだ。かなり急な山道で、痛く疲れたことを覚えているが、斜面のところどころに花を開いた高山植物が心を慰めてくれた。

山頂の山小屋に一泊し、引き続き空木へと縦走するつもりが、千畳敷から下るロープウェーを目にして意気がくじけ、それに乗って下山してしまった。だが早朝の山小屋からは、南北両アルプスの稜線がくっきりと望まれ、南アルプスの先には富士山も良く見えた。だから上ってきてよかったという気持ちになったことを覚えている。

駒ヶ根のロープウェー駅付近にはマイカー規制がひかれているので、旅館からタクシーを雇って往復した。このロープウェーは900メートルの高低差を一気に上る。下をのぞくと深い谷が口を開け、落ちたらとても助かりそうもない。だが自分たちは、落ちることなく空中を滑走していく、まるで鳥になった気分だった。

千畳敷からはあいにく、アルプスの稜線を望むことは出来なかった。しかし散策路の周辺には黄色い高山植物が咲き、周囲の緑が心地よかった。

二日目の昼飯には、駒ヶ根名物というソースカツ丼を食った。この地方でカツ丼といえば、卵で包んだ例のカツ丼ではなく、ソースカツ丼をさすのだそうだ。飯の上にキャベツの千切りを乗せ、その上にソースにつけたカツを置くのである。若い者にはいいかもしれないが、筆者のような年輩のものには決してうまいとはいえない。

食後養命酒の駒ヶ根工場に立ち寄り、更に足を伸ばして「夜明け前」という酒の醸造工場を訪ねた。呑み助の間では知る人ぞ知る幻の名酒なのだそうだ。旅館でもこの酒が出てきた。筆者は酒の味にはあまりこだわりのあるほうではないが、それでもさすがにうまいと思った。米の甘さと香りの芳醇さが素直に伝わってくる感じなのだ。仲間の一人に酒にうるさい男があって、その男が是非醸造元を訪ねたいという。そこで予約もとらずに押しかけたわけなのである。

工場は辰野と塩尻の境界付近、三州街道に面して立っていた。名称を小野酒造という。工場といっても造り酒屋であるから、煙突が立っているほかは周囲にある建物と異なるところはない。

付近には庚申塔が9個立っている場所がある。一番年代が新しいのは昭和59年、一番旧いのはそれより480年前のものである。庚申講はいうまでもなく庚申の年に行われるから、60年に一度の行事である。だから9個あれば、それは480年間をカバーしていることを意味する。この土地の歴史の古さをうかがわせる眺めであった。

あいにく休業日らしく、門扉も店も閉まっていて人気がない。いきなり訪ねてきたのだから仕方がないなと思いつつ、あきらめかけたところに、偶然店の中から主人が出てきた。我々は強運だったようだ。さっそく主人に招き入れられて、たっぷり利き酒をさせてもらった。

夜明け前という名称は島崎藤村の小説に由来している。この店はもと、頼母鶴という銘柄の酒を作っていたが、創業が万治元年(1860)、それこそ明治維新の夜明け前だということもあって、藤村の子息の許しを得てこの名を用いることとしたそうである。名を貸すにあたって、御子息は名に恥じぬ酒を作ることを条件とした。その通り、この酒は毎年品評会で優秀の成績を上げ、今や酒屋仲間で一目置かれるほどの存在になったそうだ。

このごろは日本の各地にうまい酒造りにこだわる醸造元が増えているそうだ。この店などもその旗振り役の一つだろう。主人はがっしりとした体格で屈託のない風情が酒屋というよりは坊さんのような印象を与えるが、酒造りに関しては妥協を許さぬ厳しさで臨んでいるようだ。

山形に十四代という銘柄の酒を作るものがあって、最近呑み助の間で俄かに知られるようになった。その人に話題が及ぶと、主人は俄然酒造りについて情熱を語った。

十四代の主人はもともと蔵元の息子であったが、東京農業大学で醸造学を学び、酒造りに斬新な技術を取り入れるようになった。今では引っ張りだこで、容易には手に入らないほどの人気を得ている。その主人が酒造りの上で夜明け前を目標にしていると語ったことがある。そのことを話題にすると、夜明け前の主人は「そんなことはないでしょう、かえって十四代こそわたしたちの目標です」と謙遜した。

酒造りは伝統だけではなく、取り組むものの姿勢如何でいくらでも進歩する。それは作るものと飲むものとの共同作業だ。こんなような趣旨のことを主人は語り続け、我々に向かって利き酒のおかわりを進めたりするのだった。

すっかり気持ちのよくなった我々(無論運転手は除くよ)は、トイレを借りて身を軽くすると、それぞれに土産の一本を買い求めて失礼した。旅の情緒を彩るすがすがしい時間であった。


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    このページは、が2007年9月18日 20:26に書いたブログ記事です。

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