擬挽歌詩:陶淵明自らのために挽歌を作る

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陶淵明は晩年、自分自身のために挽歌を作った。擬挽歌詩三首がそれである。何のために、自分自身の死を悼む詩をつくったのか。単なる遊び心からか、それとも陶淵明一流の空想が働いたか。解釈は様々になされうるが、中国史上にも例を見ないユニークな思いつきであることに違いはなかろう。

三首はそれぞれ、納棺、葬送、埋葬を歌っている。したがって、独立した詩の集まりというより、統一した主題意識に基づいて作られた連作だということがわかる。

一海知義によれば、陶淵明以前に挽歌を製作したものに、晋の陸機や魏の謬襲があるが、それらも納棺、葬送、埋葬の三部構成をとっているそうである。ただ、陶淵明とは異なり、他者の死を、死んだものに成り代わって歌っている。陶淵明のユニークなところは、先にも述べたように、自分の目で自分の死を見つめているところにある。


擬挽歌詩 其一 (納棺を歌う)

  有生必有死  生有れば必ず死有り
  早終非命促  早く終はるも命の促まれるにあらず
  昨暮同爲人  昨暮は同じく人たりしに 
  今旦在鬼録  今旦は鬼録に在り
  魂氣散何之  魂氣散じて何くにか之く
  枯形寄空木  枯形を空木に寄す
  嬌兒索父啼  嬌兒は父を索めて啼き
  良友撫我哭  良友は我を撫して哭す
  得失不復知  得失 復た知らず
  是非安能覺  是非 安んぞ能く覺らんや
  千秋萬歳後  千秋萬歳の後
  誰知榮與辱  誰榮と辱とを知らんや
  但恨在世時  但だ恨むらくは世に在りし時
  飮酒不得足  酒を飮むこと足るを得ざりしを

命あるものは必ず死ぬ、人より早く死んだからといって寿命が縮まったわけではないのだ、かくて昨夜生きていた人も、今朝は死んであの世に行くことともなる

魂は去ってどこへ行ってしまったのか、亡骸だけが枯れ木のように残される、子どもたちは父親にすがってなき、友らは自分の遺骸をなでて慟哭する

生きていてよかったかどうか、よくはわからぬ、まして意味があったかどうかに至ってはなおさらわからぬ、はるか将来の先に、誰が評価してくれるというのか

唯一つ無念だったのは、生きている間に十分酒を飲むことが出来なかったことだ


擬挽歌詩 其二 (葬送を歌う)

  在昔無酒飮  在昔 酒の飮むべき無く
  今但湛空觴  今は但だ空觴を湛ふ
  春醪生浮蟻  春醪 浮蟻を生ずるも
  何時更能嘗  何れの時にか更に能く嘗めん
  殽案盈我前  殽案 我が前に盈ち
  親朋哭我傍  親朋 我が傍に哭く
  欲語口無音  語らんと欲して口に音無く
  欲視眼無光  視んと欲して眼に光無し
  昔在高堂寢  昔は高堂に在りて寢るも
  今宿荒草郷  今は荒草の郷に宿る
  一朝出門去  一朝 門を出でて去らば
  歸來良未央  歸來 良に未だ央きず

生きていたときには酒を飲みたくても飲めなかったのに、死んだいまになって、空しく杯を満たしている、今春出来上がったばかりのどぶろくには泡が生じているが、それをなめることはもうできぬのだ

我が亡骸の前にはお供えが並び、親類友人たちが我が死を悼んで泣いている、彼らに語りかけようと思っても口には音がなく、彼らを省みようと思っても目には光がない

生きていた時は高堂に寝たものだが、これからは荒れた草に埋もれて寝なければならぬ、これから門を出て去ってしまえば、もう二度と戻ることはないのだ


擬挽歌詩 其三 (埋葬を歌う)

  荒草何茫茫  荒草 何ぞ茫茫たる
  白楊亦蕭蕭  白楊 亦蕭蕭たり
  嚴霜九月中  嚴霜 九月の中
  送我出遠郊  我を送りて遠郊に出づ
  四面無人居  四面 人居無く
  高墳正嶣嶢  高墳 正に嶣嶢たり
  馬爲仰天鳴  馬は爲に天を仰ぎて鳴き
  風爲自蕭條  風は爲に自づから蕭條たり
  幽室一已閉  幽室一たび已に閉ずれば
  千年不復朝  千年 復た朝ならず
  千年不復朝  千年 復た朝ならざれば
  賢達無奈何  賢達も奈何する無し
  向來相送人  向來相送る人
  各自還其家  各自其家に還る
  親戚或餘悲  親戚 或ひは悲しみを餘すも
  他人亦已歌  他人 亦已に歌ふ
  死去何所道  死し去りては何の道ふ所ぞ
  託體同山阿  體を託して山阿に同じうせん

荒草の何と茫々たることか、白楊もまた寂しげになびいている、嚴霜が下りる九月のなかば、人々は私の遺骸を野辺送りする

周囲には人家もなく、高く盛られた塚が突きあがっているように見える、そのため馬は天を仰いでいななき、風は寂しい音を立てて吹く

墓穴がいったん閉じられてしまえば、千年経っても生き返ることはできぬだろう、千年たっても生き返ることができないのでは、賢達といえどもどうにもならぬ

葬儀が済むと、私を野辺送りしてくれた人々は、それぞれ家に帰る、親戚は引き続き悲しんでくれるだろうが、他人はもう鼻歌を歌っているにちがいない

死んでしまっては、何をいっても無駄だ、いづれ我が亡骸は土になってしまうのだから


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