プラトンの対話編「テアイテトス」:感覚と知

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プラトンの対話編「テアイテトス」は、プラトンがソクラテスから自立して独自の思想を展開し始めた中期の作品群の先頭をなすものである。彼の思想の最大のテーマとなった「イデア」の研究に向けての橋頭堡ともなった。

この対話編の最大の目的は、知識とは感覚と同じものであり、したがって人間一人一人の感覚の相違に応じてさまざまな知識がありうるとするプロタゴラスの説を反駁することである。そしてその反駁を通じて、真の知とは感覚ではなく精神によってとらえられるのであり、しかもその対象なる知とは、感覚によってもたらされる仮象とは別に、客観的な存在であることを証明しようとすることにあった。

この客観的な存在者とされるものは、プラトンの思想の中で重みを増し、やがて「イデア」として実体性を付与されていく。だが「テアイテトス」においては、議論はその一歩手前のところで終わっている。この作品は、イデアに関するプラトンの深い思索の出発点をなすものなのである。

この対話編は、紀元前369年に戦死したテアイテトスの追悼のために書かれたとも言われている。テアイテトスはプラトンのアカデメイアの一員だった人物である。もしこの伝えが本当だとしたら、この対話編を書いたとき、プラトンは60歳近くになっていたはずである。この作品はプラトンの中期の思想を物語るものとされているので、上記のことを与件とすれば、プラトンは老年になって活発な思想を展開し始めたということになろう。

対話編は、テアイテトスが少年時代に、老いたソクラテスと知について語るという設定になっている。だが、そこに盛られた会話の内容は、ソクラテスの考えそのものというよりは、先述したような理由から、ソクラテスの口を借りてプラトン自らの思想を語っているというべきなのである。

さてソクラテスはテアイテトスに向かって、「何が知識なのか言ってみたまえ」と問いかけることから対話を始める。それに先立ってソクラテスは、テアイテトスが何か生むに価するものをもっており、自分の役目はそれを無事生み出すための手助けをする産婆のようなものだと強調することを忘れない。

テアイテトスは答える。「とにかく、私の思うところを申し上げると、何者かを知っている人は、その知っているものを、感じているのです。ですから、どうもただいまのところでは、知識は感覚にほかならないと思われます。」(以下、引用文は田中美知太郎訳)

ソクラテスはすぐさま、テアイテトスのこの考えはプロタゴラスの説そのものだと喝破し、またその説は「人間は万物の尺度である」という説と同一の内容なのだと主張する。

「あらゆるものの尺度は人間だ。あるものについては、あるということの、あらぬものについては、あらぬということの。・・・いかなるものも、ぼくにとっては、それがぼくに現れているとおりの様子で、ぼくにとってあるのだ。また君にとっては、それは、君に現れているとおりの様子で、あるのだと。そして、人間とは、この場合の君やぼくがそれであると。」

こうソクラテスは、プロタゴラスの説を要約する。だがこの考えを前提にすると色々と不都合な自体が生ずる、とソクラテスはいう。

感覚なら豚やヒヒもまた有するのであるから、プロタゴラスはそれらの動物も万物の尺度として認めるべきだとか、夢を見ているときや狂っているときにも人は感覚があるものだが、それらも尺度として認めなければならないのかとか、もしどの人の判断も、他の人の判断と同様に正しいのだとしたら、プロタゴラスは誤っていると判断する人々も、プロタゴラスと同様に正しいということになり、どうにも収拾がつかなくなるといった議論である。

これらの議論はよく読むと飛躍も多いし、眉に唾して読まねばならないところも多い。だが突き詰めれば、感覚を即知識であるとする立場からは、多くの人間に共通するよう納得できる知識は生まれず、したがって人びとは何に関しても、相対的で不安定な根拠に基づいて行動せざるを得ない羽目に追い詰められるのだという、確信がある。

果たして知とは、また真理とは何者なのか、ソクラテスは改めて問いかける。感覚は、視覚にせよ、聴覚にせよ、味覚にせよ、対象について個々具体的なものをとらえているように見えるが、それがとらえているものは単なる仮象であって、対象そのものの「あること」、つまり存在ではない。われわれはある対象について、それが白いとか、やわらかいとか、甘いとか個別的な感覚を持つことはできるが、それらの諸感覚が同一の対象についてのさまざまに異なったありかたなのだということについては、感覚そのものからは知ることができない。

対象があるものとしてあるそのあり方は、感覚を超えた精神の働きによってはじめてとらえられるものだ。

「われわれは、眼を使えば、白や黒を認め、目より他のものを使えば、また別の何かを認めるが、使うのは何を使おうと、認めるのは、使用者たるわれわれ自身の何かである。」

「身体を通して受け取られただけのものの中には、知識は存在しないのだ。むしろ、その身体に受け取られただけのものについてめぐらされた思量の中に知識があるのだ。」

こうしてソクラテスは、知識とは感覚そのものではなく、感覚を与件として、それについてわれわれ人間が下す判断の作用の中に、あるいはその結果としてもたらされるものの中にあるといっている。

ところで知識とはあるものについての、言い換えれば存在するものについての知である。存在しないものについての知などは、不可能だからだ。存在はあらゆるものに属しており、それをとらえることができるのは、心によってである。この存在をとらえること、あるいは存在について正しい判断を下すこと、そのことの中に真理はある。

とりあえず、ここまでのことを確認するのが、この対話編の目的だったようである。対話のやり取りは時に脱線し、また堂々巡りをしているようで、読むものに緊張や、場合によっては退屈を強いるのであるが、プラトンの展開する論理は、感覚ではとらえられない理念的な対象があり、しかもしれは相対的なものではなくてあらゆる人間にとって認めざるを得ない客観性を持つものだということを、論証しようとするものであった。

その論証の過程ははるか時空を隔てた我々にとっても迫力に満ちたものだ。


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