還暦を迎えて:十二支と陰陽五行

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今年平成二十年(2008年)は、暦の上では戊子の年にあたる。筆者がこの世に生まれて来たのは昭和23年、やはり戊子の歳であったから、今年は筆者にとっては暦が一巡する年、つまり還暦に当たる年である。いうまでもなく、暦が一巡するためには60年を要する。信長の時代には人生50年であったものが、今日では60年を生きることは珍しくなくなった。そのおかげをこうむって、筆者も暦上の一区切りの長さを生き永らえることができた次第である。

日本人は今でこそ暦を気にすることはなくなってしまったが、つい二世代ほど前までは、日常の生活が暦なしでは成り立たないほど、暦は人びとの生活に溶け込んでいたものだ。明治維新を契機に太陽暦が採用されるようになる前には、陰暦が用いられていたので、陰暦をベースにした伝統的な暦は、古来日本人の生活のあらゆる部分を律してきた。

暦の思想を貫いているものは、易の陰陽五行の説と、十二支の伝説である。陰陽は日本語では「え」と「と」によって表される。これと五行の木火土金水が結合して、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸となり、それぞれ「きのえ」、「きのと」などとなった。それがさらに十二支のいづれかと結びついて甲子(きのえね)、乙丑(きのとうし)などとなり、あらゆる年と日に割り当てられるようになったわけである。

十二支の奇数に位置するものは陰陽の奇数にあるものとしか結びつかないから、十二支と陰陽五行の組み合わせは六十通りである。だから暦は60回を周期にして一巡する。年数にあっては60年を以て、一つの時代の区切りが生ずるわけである。

西洋暦の場合には、100年を以て一世紀となし、一まとまりの時代区分に用いているが、伝統的な暦にあっては60年が一区切りである。これはほぼ人の一生に重なり合っている。

かつての日本においては、「えと」の始まりである甲子の年には元号を改めて、新しい60年が始まることを人びとに意識付けていた。今では天皇を中心にして一世につき一つの元号であるが、徳川時代以前には60年ごとにおとずれる甲子の年の元旦にかならず元号が変わったのである。明治以前のもっとも近い例としては、1804年が甲子の年にあたっており、文化と改められた。

西洋歴では19世紀とか20世紀とか称して時代のイメージを感じられるようにできている。それに対してかつての日本においては、文化元年の甲子の年に始まる60年間とか、その前の延享元年に始まる60年間という風に意識されていたのである。

徳川時代以前に書かれた文章を読むと、日付の部分に元号と並んで必ず「えと」が表示されているが、これは以上のような事情によるのである。そのほうが年の順序を理解するには都合よかったからにほかならない。

話が「えと」のことにそれてしまった。ともあれ還暦を迎えるのはめでたいことだ。かくなるうえは「古希」、「喜寿」、「傘寿」、「米寿」と齢を重ね、できうれば「白寿」まで生き延びたいものだ。

知命庵主人の新年ご挨拶


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このページは、が2008年1月 1日 10:38に書いたブログ記事です。

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