そばの食い方:日本的外食の原点

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そばといえば普通蕎麦屋で食うものだ。もちろんスーパーでそば玉を買ってきて、自分で茹でて食うこともできるが、何となく味気がない。そばはやはり蕎麦屋で食うからうまいと感じるのは、筆者だけではあるまい。

それというのも、そばという食い物は、もともと江戸の市中にあって、庶民の間食の需要にこたえるものとして始まった経緯があるからだ。江戸の蕎麦屋は日本の外食産業の始まりだったのである。

そばが今日のような形で食われるようになったのは、詳しくはわかっていないが、せいぜい徳川時代の始め頃だったろう。民衆の食い物として広く食われ始めるのは享保の頃であったらしい。三田村鳶魚翁によれば、もともと甲州から入ってきて、「そばきり」といわれていたが、いつしか単に「そば」というようになった。

徳川時代も中頃に入ると、諸国から職を求めるものが流入してきて、人口が増えた。それらの大部分は職人たちであった。江戸の職人は、たらふく食うと力仕事に差し支えるといって、一度にはあまり多くは食わなかった。小食は江戸っ子の勲章のようなものであった。彼らは地方の者が大食するのをみると、田舎者といってさげすんだのである。

そこで江戸の職人たちは腹が減るのを紛らわそうと、こまめに間食をするようになった。蕎麦屋の提供する外食は、すし屋と並んで、こうした職人たちの需要にこたえて繁盛するようになったのである。

昨今の蕎麦屋では、そばを「ざる」と称する蒸籠に盛って出すのが普通だが、鳶魚翁によれば、これはそばを蒸して食っていたことの名残なのだそうだ。昔は蕎麦玉をざるにのせて、それを蒸していた。蒸しあがったそばをざるのまま客の前に出していたのである。

そのうち蕎麦はゆでて食われるようになった。そうなると、皿に盛るようなこともなされるようになったが、それではやはり見てくれがよくない。やはり蒸籠で蒸したときのように、ざるに盛って出したほうが喜ばれる。

今日、ただ単にざるに盛ったものを「もり」といい、それにのりの切れ端を振りかけたものを「ざる」と呼んでいるのは、蕎麦屋の工夫によるのだろう。

そばの食い方については、江戸の庶民たちは独自の美学とでも言うものをもっていた。汁のなかにざぶざぶと浸すようにして食うのはやぼな食い方だとされていた。そばというものは、汁にさっとくぐらせ、つるつると飲み込むようにして食うものだ、それがそばを食うときの流儀であった。

いわんや、そばの上から汁をかけて食うのは、「ぶっかけ」といって、馬方蕎麦だとさげすまれた。今日では、たぬきやきつねは言うに及ばず、汁につけた蕎麦に、さまざまなものを付け加えて食う風潮が一般的だが、江戸ではそんなことはなかったのである。こうしたかけそばの類が認知されるのは、だいぶ時代が下がってからのことである。

今でも蕎麦屋の暖簾には生蕎麦と書いたものが多い。生蕎麦とはそば粉だけで作ったそばというのが原義である。徳川時代には、そば粉にうどん粉を混ぜたものが多かったらしく、二八そばなどということばも流通した。そば粉八部うどん粉二部という意味である。このほか「らんきり」といって鶏卵をつなぎにつかったもの、「いもぎり」といって山芋をつなぎに使ったものなどがあった。それらは決して「生そば」とはいわれなかったのである。

ところで、蕎麦は徳川時代以前には食われていなかったかというとそうではない。今日のような麺の形ではないが、さまざまな形で食われていたらしい。団子にして水団のような形にしたり、粉を湯にといてそばがきの形で食うのが一般的であったと思われる。

もともと蕎麦は、縄文時代の遺蹟に発見されているように、わが国では古代からある食材だった。それがあまり食われることのなかった理由は判然としない。どうやら蕎麦は、米や麦などの穀物が途絶えたときの、最後の代用食としての位置づけに、長い間甘んじていたようなのだ。

蕎麦は、日本独自の食文化のように思われている。ある面ではそうかもしれない。たしかにそばを今日の日本でのように、麺にして食うのはあまり例を見ないだろう。だがそばを食う民族は、隣の朝鮮半島に住む人びとから中国大陸を経て、アジア大陸の各地に広がっている。

近頃日本で韃靼そばがブームになっているそうだ。そばは、米や麦が育ちにくいやせた土地でも育つ。モンゴルのような草原の地でも安定した収穫を見込める。しかも独特の栄養バランスを有している。

そばは色々な意味で、人類の未来にとって大事にすべき食い物の一つといえるだろう。


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    江戸の職人が小食だったと言うのは理に適ってますね。 お腹いっぱい食べたら血液が全部胃の方へ行ってしまい、頭が空っぽで眠くなり後の仕事に差し支えますね。 まあ理想は食べたい時に好きな量だけ食べる事で、猫がそうです。 しかし社会、文明生活をしてると時間に支配され、そうは行かなくなり仕方なく朝、昼、晩ご飯の時間帯ができたのでしょうか。 自然の生活をしてたら好きな時間に食べて。。。  昔ある本で読んだあるエスキモーの種族には所謂家族が食卓を囲むと言う習慣はなく、皆好き勝手にお腹が空いたら食べると言う事で、何となく頷けるのものがありました。

    さて、お蕎麦の話ですが 「蕎麦は表面のを一寸つまんで引き上げ更につまみ直すと丁度良い量が、それをつけ汁に全部つけず、一寸汁に触る位にして勢い良くすすり込むんだよ。」 「消化が良いからそんなに噛まなくても大丈夫なんだよ。」と芝白金育ちの父が食べ方を教えてくれたのは私が小学生の時でした。 お蕎麦だけは音を立てて食べても良い事。 食べ終えたら、湯桶(蕎麦の茹で汁)を貰ってつけ汁を薄めて飲むと美味しい事も食べ物や味にうるさい父から教わりました。 後から分ったのはこの湯桶には体に良いナイアシンがたっぷり含まれている事です。

    今でこそ、ざる蕎麦の食べ方は誰でも知ってますが、前に実家で皆が笑いながら話してたのは、その昔(1920年代頃)大叔父の奥さん(彼女は横浜育ち)が盛ってあるお蕎麦の上にバッとつけ汁を掛けてしまい、そこらじゅうが汁だらけになったという事です。 ざる蕎麦の食べ方は知る人ぞ知ると言う時代だったのでしょうか。 今でこそ笑い話ですが、その頃はTVもなく、ものの伝わり方は遥かに遅く、お蕎麦にしても限られた地方の食べ物だったかも知れませんね。

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