デカルトの二元論:精神と物体、意識と存在の分裂

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デカルトは方法的懐疑を用いて、人間の感覚、知覚や思考の中に現れてくるすべての事象を一旦棚上げした。そうすることで「思考する我」つまり「精神的存在としての私」を抽出してくるのであるが、この際に疑いの対象となったものの中心は、通常我々が物質と呼ぶものである。物質の存在性は、我々が日常そう思っているほど堅固なものではない、それはいくらでも疑いうるものなのだ、これがデカルトの方法的懐疑の核心的主張であった。

それでも物質というものは、我々自身の身体も含めて、抗いがたいレアリティを以て我々に迫ってくる。我々の感覚や知覚の多くは、我々自身の精神の中に起源を持つというよりは、外界から現れてくるように思えるし、また想像力や情念の多くも物質を考慮しないでは観念し得ないように思える。

そこでデカルトは、方法的懐疑をへて「考える我」の実在性を定立した後に、一旦棚上げしたこの物質というものの実在性について、改めて考察の対象とした。その結果、この世界には精神的な実在と並んで、物質的な実在があり、その明証性は神によって裏付けられているのだという、結論に至る。

デカルトの著作「省察録」は神の存在証明と並んで、物質の存在証明にも取り組んでいる。ここではそれを手がかりに、デカルトの物質観と、その精神との関連についてデカルトがどう考えていたかを、取り上げてみたい。

デカルトは物質について考察するにあたっても、物質から直接出発するのではなく、あくまでも精神から出発し、精神の明証性にもとづきながら、その対象としての物質の存在性格を議論するという方法を貫いている。デカルトは哲学者であるより前にまず科学者であったから、物質そのものから出発するほうが相応しい態度にも思えるのだが(少なくとも我々現代人にとっては)、彼はあくまでも精神から出発して物質にたどり着く方法を選んでいるのである。

「省察」のなかでデカルトは、物質についての予備的考察として、有名な「蜜蝋の分析」を行なっている。蜜蝋は蜂の巣から取り出したばかりの時には、花の香が残り、色や形や大きさもはっきりとしている。これを火に近づけると、香は消え、色もかわり、形が崩れる。しかし我々はそれを始めのものと異なった蜜蝋としてではなく、あくまで同じ蜜蝋として観念している。

これは、我々がある対象について認識する場合には、そこに我々の判断が介入していることを意味している。生き生きとした蜜蝋としなびた蜜蝋は、感覚に対して直接に現れる形においては異なったものであるが、我々はそれを同一の蜜蝋として認識する。ここには、我々が物質の存在を感覚によって直接知るのではなく、自分の判断を介して認識するというプロセスが介在入しているのである。

こうして認識された物質には、二重の存在性格があるとデカルトはいう。ひとつは形、位置、運動等の空間的な広がりに関する部分であり、もうひとつは色や音や香や味など感覚的な性質と呼ばれるものである。

このうち感覚的な性質は物質にとって本質を構成するものとはいえない。何故ならそれらは混乱した不明瞭な仕方でしか私に現れないからであり、感覚的な性質のうちあるひとつのものを除き去ったとしても、そのものが、つまりその物質がその物質である所以は失われないからである。

こうして物質の本質をなすものは、空間的な広がり、つまり延長とそれに関連する諸特性のみである、と結論付けられる。

この世界には精神と物質という二つのものが存在する。それらはいづれも神によって存在の根拠を与えられている、こうデカルトはいう。そして精神とは私の意識であり、物質とは私の意識の彼岸にある延長のことである。これらはともに、私の意識のなかに現れてくるものであるが、その意識の中で、精神は私という存在を基礎付けるものであり、物質のほうは私の意識の随伴者として現れつつも、延長という存在性格によって、私の意識とは区別されるものである。

デカルトはこのように、物質の存在についての予備的考察を行なったうえで、その物質の存在証明を詳細に展開する。物質の存在が明らかになったからといって、それが何故私にとって存在すると確信できるのか、そのことについては別に証明する必要があると、デカルトは考えていたようなのだ。

デカルトは物質の存在証明を、四つの段階を踏みながら展開していく。第一に想像力との関連において、第二に感覚との関連において、第三に心身の実在的区別との関連において、そして最後には、狭義の物質の存在証明である。

想像力とは、あるものを眼前にあるかのように表象する能力である。想像することによって、私はさまざまのものを意識のなかに現前させるが、しかし想像する私自身はそれとは別の次元にある。大事なことは、この想像力が仮に私からなくなったと仮定した場合、私が私でなくなるかという疑問である。明らかに、私から想像力がなくなったとしても、私が私であり続けることには妨げはない。したがって想像力は私の存在にとっては、本質をなすものであるとはいえない。

想像力はだから、私以外の何者かに依存するのであろう。それが恐らく物質である。このことから物質は想像力の働きからその存在が推論される。しかしこのことからいえるのは、物質の存在が確からしいということだけであり、まだ蓋然的な証明に過ぎない。

感覚との関連について言えば、感覚のうちに現れる物質の存在は、私の意志にかかわらないという点において、外部からやってきたと推論するのに十分な根拠を与えているように見える。だが感覚は時に欺くことがあるし、夢の中で対象を認知することもある。感覚のみによっては、物質の存在は十全には証明できない。

心身の実在的区別は、もっと確からしい根拠を物質の存在証明に与えてくれる。方法的懐疑によって明らかになったように、心とは「考える」ということを実在的に担っている実体であった。これに対して物質の本質をなす延長とは、心の存在性格とは明らかに異なっている。このことから、心と物質とは互いに相容れない存在性格を持っていると推論できる。

物質は心とは異なった何者かである。それは心とはまったく別の次元のところで、独立した存在をしている、こういうことが可能である。

デカルトは以上の議論を踏まえた上で、省察の第六において、物質の存在証明の総括を行なっている。それによれば、我々は物質の存在を証明するに当っても、やはり自分の思惟から出発するほかに方法はないと繰り返し言いながら、物質が我々の思惟を超えたある独立の存在であることを証明しようとしている。

私のうちには感覚という受動的な能力がある。これに対応する能動的な何者か、つまり当該の感覚を生起させるものが、わたしのうちか、あるいは私の外にあることが考えられるが、その能力が私のうちにないことは明らかである。故にそれは私とは違った実体であると考えないわけにはいかない。したがって私の感覚の中に生起する物質的事物の感覚的な表象は、物質的事物そのものから与えられたにちがいない。

以上がデカルトによる、物質の存在証明のあらましである。

デカルトはあくまでも私の意識から出発し、そこから考える我としての心の明証性を証明するとともに、それの相関者としての物質の存在を明証的に証明しようとした。

この議論を通してデカルトがたどり着いたものは、世界には心と物質という異なった性格の存在が両立しているという認識であった。それらは各々存在性格を異にしており、互いに似たところを持たない。人間は考えるものとしては心の担い手であるが、延長を持った物質としての存在性格も併せ持っている。

人間における心の部分と延長の部分とは、とりあえずは互いに交渉することがない別の存在とみなしておこう、もちろん人間はそんなに単純なものではなく、心と身体とは時に密接な相互作用を行なうこともある。それについては、別のところで改めて考察しよう、こうデカルトはいって、「省察」を結んでいる。


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