パスカルの賭:人は如何にして神と向き合うか

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パスカルが神への信仰を賭に喩えたのはあまりにも有名だ。そこには二重の意味が込められている。神の存在が自明ではないことが一つ、もうひとつは、それにもかかわらず、我々人間は神の恩寵によってしか救われないということだ。

神の存在は何故自明ではないのか。この問は信仰にとって本質的な問である。我々があるものを認識するとき、それは我々の知性にとって理解可能であるから、我々はそれを認識することができる。しかし我々の知性、いいかえれば理性は神の本質も、まして神の存在をもとらえることはできない。なぜなら神には広がりも限界もないからである。

我々の理性は、広がりも限界ももたず、したがって形もなく、中身も定かならぬものを認識することはできぬ。

それをデカルト的な理性は認識できるという。デカルトがそういっているのはまやかしなのだ。デカルトは神の概念の中には無限性があるから、我々はそのことから演繹して神の存在に関する認識に達しえるのだというが、本来無限とは人間の認識能力をもっては、とらえられぬものなのだ。

それをとらえたといいはるのは、人間の傲慢と怠惰のなせる業だ。

他方神が人間の認識を超えているからといって、存在しないものと断言することもできぬ。神は存在しないかもしれないが、存在するかもしれないのである。

神が存在しないとしたら、人間の営みに意味を付与することはできないだろう。神が存在しないなら、人間の行いには何らの義もないからである。そうだとすれば、この世に、善とか悪とかいうものを言い立てること自体空しいことになるだろう。

もう一度いうが、神は存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。どちらをとるかについて、必然性はない。こうパスカルは強調する。

ここから、パスカルのあの有名な賭の話が出てくるのである。

「よく吟味して、<神は存在する、あるいは存在しない>そのどちらかを言明してみよう。我々はどちらに傾くだろうか。理性はこの場合何の役にもたたない。そこには我々を隔てる無限のカオスがあるからだ。」
Examinons donc ce point et disons: «Dieu est ou il n'est pas». Mais de quel côté pencherons-nous? La raison n'y peut rien déterminer; il y a un chaos infini qui nous sépare.

人は何故神の存在を自分に受け入れ、神に帰依するために賭けをしなければならぬのか。その理由がこの一節に凝縮して述べられている。信仰は理性の範囲を超えた問題なのだ。我々は理性によって神を受け入れるのではなく、自分の存在を神にかけることによって始めて神と向き合うことができるのだ。

この賭けはだが、人間にとって始めから勝つように仕掛けられた賭けである。人は無論賭けをしないですますことも出来る。その場合には何事も起こらず、したがって我々は神とは無縁に生き続けるだろう。そこには神による恩寵はないだろう。人間は獣のように死ぬであろう。

もし君が賭けをした場合のことを考えてみたまえ。賭けだから、君は勝つかもしれないし、あるいは負けるかもしれない。パスカルは次のように言う。

「もし勝てば、君はすべてを得る。もし負けても君は何も失うものがない。ならばためらわずに、<神は存在する>と断言せよ。」
Si vous gagnez, vous gagnez tout; si vous perdez vous ne perdez rien. Gagez donc qu'il est, sans hésiter. (233)

人間が<神は存在する>に賭けざるを得ないのは、もしそうでなければ、神の恩寵が永遠に遠ざかるからだ。

神の恩寵とは何か。それはパスカルにとっては、人間の生きるという行為に対して、その証となるものだったのだ。言い換えれば、神の恩寵なくして、人間は人間らしい生を生きることができないのである。

人間は自分の力だけでは人間としての生き方をできない。神の恩寵がなければ、人間は人間としての尊厳を身に体することができない。だからこそ人間は、もしかしたら存在しないかもしれない神について、<神は存在する>と断言する賭けに出ざるをえないのだ。

このように、パスカルにとって、神とは理性では近づき得ない不合理な存在だった。その存在は所与なものとしてそこにあるものではなく、自分の意思によって、自分に信じ込ませるよりほか、確信されるものではない。

だが上述したように、人間には神の存在を確信しないではいられぬ、必然的な理由があるのだ。

パスカルがこのようにとらえている神が、ジャンセニスムのいう神に似ていることは容易に見て取れるだろう。

デカルトとパスカルの生きた時代、人々はカトリックの時代とは異なり、一人一人の個人として神と直接向き合わねばならぬようになっていた。その神はカトリックの神のように、所与の存在としてあったわけではない。それはキリスト者一人一人が、自分で探し出して向き合わねばならぬ存在だったのである。

神は探して必ず見つかるものではなかった。神の姿を見つけ出すのにはそれ相当の厳しい自己放棄が求められていた。自己放棄とは、己の無力を自覚して、傲慢と絶望という罪を逃れ、ひたすら神の存在を信仰することである。

パスカルは、人間に対して、己の無力を自覚し、神と向き合うことによって、自分に責任をもった生き方を選ぶよう、人びとに訴えかけているのである。

「知れ、傲慢なものよ、汝が汝自身にとってパラドックスであることを。へりくだれ、無能な理性よ。黙れ、愚かな本性よ。人間は無限に人間であることを超えていくのだと知れ。お前の知らないお前の価値について神が語るところを聞け。」
Connaissez donc, superbe, quel paradoxe vous êtes à vous-même. Humiliez-vous, raison impuissante; taisez-vous, nature imbécile: apprenez que l'homme passe infiniment l'homme, et entendez de votre maître votre condition véritable que vous ignorez. Écoutez Dieu. (434)

「イエス・キリストがこの世に来たのは、見える者を盲目にさせ、盲目の者を見えるようにさせ、病める者を治し、健康な者を死なせ、改悛を呼びかけて罪人を義ある者とさせ、正しき者を罪のうちに居させ、貧しき者を富ませ、冨める者を空しくさせるためである。」
Jésus-Christ est venu aveugler ceux qui voyaient clair, et donner la vue aux aveugles; guérir les malades et laisser mourir les sains; appeler à la pénitence et justifier les pécheurs, et laisser les justes dans leurs péchés; remplir les indigents, et laisser les riches vides. (771)


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    このページは、が2008年10月17日 23:05に書いたブログ記事です。

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