2008年11月アーカイブ

谷間の農夫The farmer in the dell :マザーグース(壺齋散人訳)

  谷間を耕す
  お百姓
  えっさら ほいさら
  お百姓

クリスマスがやってくる Christmas is coming (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  クリスマスがやってくる ガチョウが丸々と太った
  おじさんの帽子の中に1ペニー硬貨を投げておやり
  1ペニーがなかったら 半ペニーでもいいよ
  半ペニーがなかったら ファージング硬貨でもいいよ
  ファージング硬貨もなかったら どうしようもないね

イタチが跳んだ Pop! goes the weasel (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  桑の実畑の周りを
  サルがイタチを追いかける
  これは愉快だ サルは満悦
  ポーンとイタチが跳んだ

先日NHKのテレビ番組が、野宿が好きだという変わった女性を紹介していた。この女性は27歳の若さだが、数年前から野宿の楽しみに取り付かれ、寝袋を担いでどこへでも出かけていっては、気に入った場所を選んで寝るのだそうだ。河川敷に寝たり、野っ原に寝たりするほか、天気の良くないときには建物の軒先を借りて寝るという。最近では同好の人々もでき、原っぱに寝袋を並べて寝るようにもなった。

正岡子規は明治16年の5月に松山中学を退学し、翌6月に東京に向かった。時に15歳の少年に、何がこんなことをさせたのか。

麻生首相と小沢一郎氏の党首討論が昨日行なわれた。首相側からの要請に、小沢氏が応えたものだ。だが討論を見た限りでは、首相のほうは守りの姿勢が目立ち、小沢氏に皮肉な牽制球を投げられて苦笑いをするなど、とても討論をリードしていたとはいえない。自分から呼びかけておいて、逃げの姿勢に徹するようでは、大方の嘲笑を買うだけだ。

スピノザの神はキリスト教が教えるような人格神ではなく、宇宙の存在そのものと不可分なもの、あらゆる事象の根拠となって、しかもその事象のうちに顕現しているものであった。この神は理念的には必然性をあらわし、存在性格としては永遠性という形をとる。だから我々が神について想念するとき、我々は永遠の相の下に世界を見ることになる。

正月をすぐ近くに控え、デパートやスーパーではおせち料理の商戦が熱気を帯びてきたようだ。一流の料亭による凝った重箱やら、スーパー自社ブランドの手頃な価格のものやら、豊富な品揃えで消費者の食欲と美意識に訴え、財布の紐を緩めさせようと、みなさん躍起だ。

輸出立国日本がまた一つ妙なものを輸出したというので、ちょっとした反響を呼んでいるそうだ。その品目というのがふるっている。生身の人間、しかもホームレスだというのだ。

ツワブキ(石蕗):水彩で描く折々の花(壺齋散人画)


ツワブキはキク科の多年草で、福島以南の日本各地に自生している。名前の由来は艶のあるフキ(ツヤフキ)とする説があるが根拠は怪しい。しかしその葉はフキとよく似ている。フキの葉が柔らかくて繊毛があるのに対して、こちらは硬くしかも光沢がある。両方とも茎は食用になる。

ボードレール「パリの憂鬱」から「おどけ者」(壺齋散人訳)

  新年のお祭騒ぎだ。泥と雪の混沌の中を、夥しい馬車が行き交い、玩具と菓子がきらきらと輝き、欲望と絶望がめくるめく。大都会のお祭騒ぎは、孤独な連中の脳味噌さえ浮かれさせるのだ。

ボードレール「パリの憂鬱」から「芸術家の懺悔」(壺齋散人訳)

  秋の夕暮れの何と心に沁みることよ。苦痛なまでに心に染み入る。この世には、漠然としつつも強烈さを失わないある種の甘美な感覚がある。輪郭の定まらぬ切っ先ほどする鋭いものはない。

吁嗟篇:曹植

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曹植の詩「吁嗟篇」を読む。(壺齋散人注)

  吁嗟此轉蓬   吁嗟 此の転蓬
  居世何獨然   世に居る 何ぞ独り然るや
  長去本根逝   長く本根を去りて逝き
  夙夜無休閒   夙夜 休間無し
  東西經七陌   東西 七陌を経て
  南北越九阡   南北 九阡を越ゆ
  卒遇囘風起   卒かに回風の起こるに遇い
  吹我入雲閒   我を吹きて雲間に入れり

曹植の詩「美女篇」を読む。(壺齋散人注)

  美女妖且閑  美女妖にして且つ閑なり
  採桑岐路閒  桑を岐路の閒に採る
  柔條紛冉冉  柔條 紛として冉冉たり
  落葉何翩翩  落葉 何ぞ翩翩たる
  攘袖見素手  袖を攘げて素手を見(あらは)せば
  皓腕約金環  皓腕 金環を約す
  頭上金爵釵  頭上には金爵の釵
  腰佩翠琅玕  腰には佩びる翠琅玕
  明珠交玉体  明珠 玉体に交はり 
  珊瑚閒木難  珊瑚 木難に閒はる
  羅衣何颿颿  羅衣 何ぞ颿颿たる
  軽裾髄風還  軽裾 風に髄って還る
  顧盼遺光彩  顧盼すれば光彩を遺し
  長嘯気若蘭  長嘯すれば気は蘭の若し
  行徒用息駕  行徒は用って駕を息め
  休者以忘餐  休者は以て餐を忘る

シェイクスピアのソネット130 My mistress' eyes are nothing like the sun(壺齋散人訳)

  我が恋人の目に太陽の輝きはない
  彼女の唇より珊瑚のほうがずっと赤い
  雪が白いとすれば彼女の胸の色は薄墨色
  彼女の頭には黒い針金が生えている

シェイクスピアのソネット129 The expense of spirit in a waste of shame(壺齋散人訳)

  恥ずべき放埓のうちに精神を費消すること
  それが淫欲というもの この欲望を遂げるために
  偽証 殺人 流血などの罪もいとわず
  野蛮で過激で卑猥で残忍 とても信用できぬ

テディ・ベア Teddy bear (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  テディベア テディベア
  地面に触れてごらん
  テディベア テディベア
  ぐるっとまわってこらん
  テディベア テディベア
  お靴を見せてごらん
  テディベア テディベア
  それでいいのよ

ウィー・ウィリー・ウィンキー Wee Willie Winkie (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  ウィー・ウィリー・ウィンキーが街を行く
  ナイトガウンを着て階段を上り下り
  窓を叩いて鍵穴から呼びかける
  「子どもたちは寝たかな? もう10時じゃぞ」

アリの兵隊 The ants go marching (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  アリの兵隊がひとりずつ フレフレフレー
  アリの兵隊がひとりずつ フレフレフレー
  アリの兵隊がひとりずつ行く
  一人がとまって指をしゃぶった
  みんなはいっせいに地面に臥して
  雨を避けた ゴーゴーゴー

カエデのもみじ:水彩で描く折々の花(壺齋散人画)


カエデ(楓)ともみじ(紅葉)とは、今では同義語になってしまったが、もともとの日本語では違う意味を持っていた。カエデとは植物分類学上の楓のことであり、もみじとは色づく葉のことをさしていたのである。ところが日本の木々の葉の中でも最も鮮やかに色づくものは楓であったから、いつの間にかもみじといえばカエデのことをさすようになった。

正岡子規は慶応三年に伊予松山に生まれた。父親の正岡常尚は松山藩の下級武士で御馬廻りをつとめていたが、明治5年子規が満四歳のときに死んだ。子規はこの父親については殆ど記憶らしいものを持っていなかった。後に「筆まかせ」の中で回想している文章を読むと、大酒が災いして命を縮めたと評している通り、余り愛着を抱いていなかったようである。

正岡子規は日本の近代文学において、俳句と和歌を刷新した人物である。これらの伝統文学は徳川時代末期にはマンネリズムに陥り、清新な気を失っていたのであるが、子規はそれを甦らせるとともに、新しい時代の文学形式としての可能性をも拡大した。彼の業績は弟子たちを通じて、今日の短詩型文学を根底において規定し続けている。

スピノザの人間観あるいは倫理思想のユニークな点は、人間の自由な意思を否定するところである。スピノザによれば、世界のあらゆる事柄は、それを全体としてみればひとつの必然性に貫かれている。どんな出来事も偶然におきることはなく、必然の糸によってつながれている。人間の起こす出来事もそうだ。たとえある人間が恣意にもつづいて行なったと思われるものも、その裏には必然性が貫徹している。

ボードレール「パリの憂鬱」から「老婆の絶望」(壺齋散人訳)

  しなびれた小さな老婆が、可愛い子どもを見て目を細めた。みなが可愛がり、いつくしんでいるこの小さな子どもは、彼女のように弱々しい。老婆もまた、この小さな子どものように、歯もなく髪も生えてないのだ。

ボードレール「パリの憂鬱」から「異邦人」(壺齋散人訳)

  「一番好きなものは何かい、いってごらん謎めいた人よ、父親、母親、妹、それとも弟かい?
  「わしには父も母も、妹も弟もおらぬ
  「じゃあ友達かい?
  「そんな言葉は、今に至るまでわしの知らぬ言葉じゃ
  「祖国かい?
  「そんなものがどこにあるかも知らぬ
  「美かい?
  「女神や不死神なら、好きになっても良い
  「金は?
  「あんたが神を嫌いなように、わしは金が大嫌いじゃ
  「いったい何が好きなんだ、変わった異邦人よ
  「わしが好きなのは雲じゃ、あそこに浮かんでるあの雲、あのすばらしい雲じゃ

散文詩集「パリの憂鬱」はボードレールの晩年を飾る作品群である。ボードレールは晩年に至って、韻文の形式で詩を書くことに困難を感じたらしく、もっぱら散文の形で詩情を綴るようになるが、それはそれで「悪の華」とは一味違う独特の世界をかもし出すことに成功している。ボードレール自身も、そこに新しい可能性を感じ取り、百篇くらいを書き上げて、散文詩集の形で出版したい意向を持つようになった。しかしその願いは達成されず、彼の死後、残された51篇の作品が「パリの憂鬱」と題して出版された。

肥満の行き着く先が糖尿病だということは誰でも知っている。人が何故肥満するかといえば、それは摂取する栄養分が代謝に必要なエネルギー源を上回るからだ。人間の体はこの余計な栄養分を脂肪などの形で細胞内に蓄える。一種の貯蓄と考えてよい。ところが肥満があまりにも進むと、この貯蓄の機能がうまく働かなくなる。その結果血液中の栄養分は細胞によって吸収されずにそのまま血液中に残り続ける。これが糖尿病発症メカニズムの基本パターンである。

曹植の詩「白馬篇」を読む。(壺齋散人注)
                        
  白馬飾金羈  白馬金羈を飾り
  連翩西北馳  連翩として西北に馳す
  借問誰家子  借問す誰が家の子ぞ
  幽并遊侠兒  幽并の遊侠兒
  少小去鄕邑  少小にして鄕邑を去り
  揚聲沙漠垂  聲(な)を沙漠の垂(ほとり)に揚ぐ
  宿昔秉良弓  宿昔良弓を秉り
  苦矢何參差  苦矢何ぞ參差たる
  控弦破左的  弦を控(ひ)いて左的を破り
  右發摧月支  右に發して月支を摧く
  仰手接飛柔  手を仰ぎて飛柔に接し
  俯身散馬蹄  身を俯して馬蹄を散ず
  狡捷過猴猿  狡捷なること猴猿に過ぎ
  勇剽若豹蛟  勇剽なること豹蛟の若し

曹植の詩「七哀詩」を読む。(壺齋新人注)
                        
  明月照高樓  明月高樓を照らし
  流光正徘徊  流光正に徘徊す
  上有愁思婦  上に愁思の婦有り
  悲歎有餘哀  悲歎餘哀有り
  借問歎者誰  借問す歎ずる者は誰ぞ
  言是客子妻  言ふ是れ客子の妻なりと
  君行踰十年  君行きて十年を踰え
  孤妾常獨棲  孤妾常に獨り棲む
  君若淸路塵  君は淸路の塵の若く
  妾若濁水泥  妾は濁水の泥の若し
  浮沈各異勢  浮沈各おの勢を異にし
  會合何時諧  會合何れの時にか諧はん
  願爲西南風  願くは西南の風と爲り
  長逝入君懷  長(とお)く逝きて君が懷に入らん
  君懷良不開  君が懷良に開かずば
  賤妾當何依  賤妾當に何にか依るべき

シェイクスピアのソネット128  Oft, when thou, my music, music play'st(壺齋散人訳)

  時折君が音楽を、私に音楽を奏でるとき
  鍵盤は君の優しい指につれて動き回り
  弦は揺れつつハーモニーを発し
  私の耳は陶然となるのだ

シェイクスピアのソネット127 In the old age black was not counted fair(壺齋散人訳)

  昔は黒を美しいとはいわなかった
  仮にそう思っても美と呼ぶことはなかった
  ところが今や美の正当な後継者扱い
  かえって本物の美が貶められて私生児扱い

オールド・キング・コール Old King Cole (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  オールド・キング・コールは愉快なお方
  愉快なお方はコール王
  パイプを持ってこさせ ボールを持って来させ
  ついでに三人のバイオリン弾きを連れて来させた
  バイオリン弾きはひとつづつバイオリンをもち
  ひとつづつのバイオリンをバイオリン弾きがもった
  どれをこれも比べようもなくすてきに見える
  コール王とバイオリン弾きとバイオリン

マフィン売りの男 Do you know the Muffin Man (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  マフィン売りを知ってかい?
  あのマフィンを
  売る男を
  マフィン売りを知ってるかい?
  ドルーリー通りに住む男

メリーの子羊 Mary had a little lamb (マザーグースの歌:壺齋散人訳)


  メリーの子羊
  雪のような綿毛
  メリーの行くところ
  どこでもついて行く

永井荷風の小文に「柳北仙史の柳橋新誌につきて」と題する一篇がある。成島柳北「柳橋新誌」成立前後の事情を紹介した文章である。特に初篇に焦点を当てて、それが柳北自身の遊興体験からもたらされたものであることを解明している。

スピノザの神

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デカルトの心身二元論によれば、人間は精神という実体と延長としての身体という実体とが何らかの形で結合したものであった。そして神は、これら二つの実体に根拠を与えるところの第三のしかも高次の実体とされた。だがスピノザにいわせれば、精神と身体とは実体とはいえない。なぜなら、デカルトも認めるように、実体とは唯一にして無二の、それ自身の中に自分の根拠を有する存在であって、厳密にそういえるのは神しかないからだ。

深海に生息する類のタコには墨袋がない。タコが墨を吐き出すのは敵から姿をくらますためだが、深海はもともと真っ暗なので、その必要がないからである。

トリスタン・コルビエールの詩「死のジョーク」 Petit Mort Pour Rire(壺齋散人訳)

  軽やかに流れる帚星は髪の毛も梳かしてくれる!
  風にそよぐ葉っぱが梳かしてほしいとさ
  お前の見開いた目からは火花が散る
  それは馬鹿な頭に閉じ込められてた妖精なのさ

トリスタン・コルビエールの詩「ロンデル」 Rondel(壺齋散人訳)

  真っ暗だぞ 光泥棒!
  もう夜は来ない 昼も来ない
  あいつらが来るのを待ちながら 眠れ
  あいつらはいう 「いつか!」 そして 「いつも!」と

フランス人がセックスを巡る事柄に鷹揚なことはよく知られている。特に女性は、ほかの国の女性たちに比べセックスへのタブー意識が弱いとされる。既にヴィヨンの時代から、パリ女たちはセックスを謳歌し、年老いた女たちもセックスの喜びから遠ざけられることを何よりの痛恨事としてきた。

曹丕の詩「燕歌行」を読む。

  秋風蕭瑟天気涼  秋風蕭瑟として天気涼し
  草木搖落露為霜  草木搖落して露霜となる
  羣燕辭帰雁南翔  羣燕辭し帰りて雁南に翔る
  念君客遊思断腸  君が客遊を念いて思ひ腸を断つ
  慊慊思帰戀故郷  慊慊(けんけん)として帰るを思ひ故郷を戀はん
  何為淹留寄佗方  何為れぞ淹留して佗方に寄る
  賤妾煢煢守空房  妾煢々(けいけい)として空房を守り
  憂来思君不敢忘  憂ひ来りて君を思ひ敢へて忘れず
  不覚涙下霑衣裳  覚えず涙下りて衣裳を霑(うるお)すを
  援琴鳴絃發清商  琴を援き絃を鳴らして清商を發するも
  短歌微吟不能長  短歌微吟長くする能わず
  明月皎皎照我牀  明月皎皎として我が牀を照らし
  星漢西流夜未央  星漢西に流れ夜未だ央きず
  牽牛織女遥相望  牽牛織女遥かに相望む
  爾獨何辜限河梁  爾独り何の辜(つみ)ありて河梁に限らる

曹操の詩「短歌行」を読む。(壺齋散人注)

  對酒當歌  酒に對して当に歌ふべし
  人生幾何  人生 幾何ぞ
  譬如朝露  譬ゆるに朝露の如し
  去日苦多  去る日は苦だ多し
  慨當以慷  慨して当に以て慷すべし
  幽思難忘  幽思 忘れ難し
  何以解憂  何を以てか憂ひを解かん
  惟有杜康   惟だ杜康有るのみ

シェイクスピアのソネット121 'Tis better to be vile than vile esteem'd(壺齋散人訳)

  悪党だと思われるより 悪党であるほうがましだ
  そうではないのに そうだと非難されるくらいなら
  自分はそう感じないでも 他人の目にそう映れば
  正当な快楽も台無しになる

シェイクスピアのソネット119  What potions have I drunk of Siren tears(壺齋散人訳)

  何という妙薬を私は飲んだことか
  それは汚らしいランビキで蒸留したシレーヌの涙
  恐れには希望を 希望には恐れを処方するというが
  勝ったつもりが負けてばかりの有様なのだ

ラヴェンダーは青い Lavender's blue (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  ラヴェンダーは青い ララ ラヴェンダーは緑
  僕が王様なら ララ 君は女王さ
  誰があなたに ララ そういったの?
  それは僕の ララ 心がいったのさ 

鐘が鳴る Ding, Dong, Bell (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  リーン リーンと鐘が鳴る
  子猫ちゃんは井戸の中

マザーグースのおばさん Old Mother Goose (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  マザーグースのおばさんは
  散歩がしたくなったときは
  ご亭主の背中にまたがって
  空中を飛び回るんだとさ

  するとジャックのママがやってきて
  マザーグースを捕まえると
  その背中にまたがって
  月まで飛んでいったとさ

今日成島柳北の文業を正しく評価するものはほとんどいない。その著作のうち書肆に出回っているのは「柳橋新誌」くらいである。これは岩波文庫に収められているほか、いくつかの全集ものにも入っているから、比較的手に入りやすいが、それ以外には、昭和44年に刊行された明治文学全集所収のものが最後で、図書館に行かなければ目にすることができない。

スピノザの主著「エチカ」を読むと、まずその独特の構成に驚かされる。全体は第一部の「神について」に始まり、5部に分かれているが、いずれの部も、定義に始まり、公理、定理、証明の連鎖からなっており、あたかもユークリッド幾何学の論文でも読んでいるような感じをさせられる。

トリスタン・コルビエールの詩「最期」 La Fin(壺齋散人訳)

  まさしくこれらの船乗りども 水夫も船長も
  大海に永遠に飲み込まれるべく
  遠い航路へと呑気に船出したところが
  みな死んでしまったのだ 船出の姿そのままに

トリスタン・コルビエールの詩「忌まわしい眺め」 Paysage Mauvais(壺齋散人訳)

  干からびた骨の砂 -波が弔いの鐘のような音をたて
  ひとつまたひとつとざわめき寄せる
  ―どんよりとした沼地には
  月が虫を飲み込んで 夜が更ける

漁父は漁父辞とも称され、楚辞の諸篇の中でも最も有名なものだ。司馬遷も史記の中で、屈原の孤高を象徴する詩として引用している。

アメリカ大統領選 Election 2008は一年近くにわたる長丁場の戦いの末、民主党のバラク・オバマが勝利した。アメリカの長い歴史の中で、黒人が大統領になるのは初めてのことだ。それだけにアメリカ国民はもとより世界中の人々が時代の大きな変化を感じ取ったに違いない。

卜居は屈原が占いに託して、自分が世に入れられぬ不満を述べたものである。卜居とはもともと、居宅の吉凶を占うことだが、ここでは運命を占うという意味で用いられている。

貧困ビジネスという言葉があるそうだ。誰が作ったかは知らぬが、NHKがこの言葉を使って、現代日本社会に巣食う病理現象を描き出していた。

誰しも、少年時代から青年時代にかけて口ずさみ、生涯思い入れの深い歌やそれを歌った歌手の思い出を持っているものだ。筆者にとって、フランク永井はそんな歌手の一人だった。昭和30年代の高度成長期に東京で育った筆者にとって、フランク永井のあの低音の歌声は、いまでも少年時代の幸福な日々の追憶と結びついている。

シェイクスピアのソネット116  Let me not to the marriage of true minds(壺齋散人訳)

  真実の心と心が結ばれるにあたり
  障害を介入させないようにしよう
  事情が変われば自分も変わり 相手次第で心を移す
  そんな愛は愛とはいえない

シェイクスピアのソネット111  O, for my sake do you with Fortune chide,(壺齋散人訳)

  お願いだから あの運命の女神を非難してくれたまえ
  私に悪弊を植え付けた罪深き女神を
  彼女が私のために授けてくれたのは
  世渡りに必要な処世術だけだ

コスモス(秋桜):水彩で描く折々の花(壺齋散人画)


コスモスは秋桜とも表示されて、日本の秋にはなくてならないほど身近な花になった。だが原産地はメキシコの高原地帯で、日本に伝わったのは明治以降のことに過ぎない。生命力が強く、やせた土地にも生えるので、日本古来の草花をおしのけて繁茂しているほどだ。

へそ曲がりのメリー Mary, Mary, quite contrary (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  メリーったら 本当にへそ曲がり
  あなたのお庭の様子はどう?
  銀の鈴や 貝殻や
  女の子たちが並んでいるの

小人の亭主 I had a little husband(マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  わたしの亭主は小人なのさ
  わたしの親指ほどもない
  コップの中に住んでいて
  太鼓を叩いて遊んでいるのさ
  小さな鼻をぬぐうには
  布の切れ端で十分なのさ
  ストッキングをとめるのも
  ちっぽけなガーターで十分なのさ

子猫がベッドで寝てるわけ Why is Pussy in bed (マザーグースの歌:壺齋散人訳)

  子猫がベッドで寝てるのは何故?
  「病気なのさ」とハエがいった
  「もしかしたら死ぬかもしれない
  それでベッドで寝ているのさ」

成島柳北の奇文「辟易賦」は明治8年8月17日の朝野新聞に掲載された。この年の6月に讒謗律と新聞紙条例が施行され、政府はさっそくそれを適用して、末広鉄腸らの新聞人を弾圧し始めたので、成島柳北はこの文を作って、政府を痛烈に批判したのである。

2008年のワールドシリーズは、ナショナルリーグのフィラデルフィア・フィリーズがアメリカンリーグのタンパベイ・レイズを4勝1敗で破り、28年ぶり2度目の制覇を果たした。フィリーズは初戦敗退の後4連勝、しかも第5戦では6回表の攻撃中大雨に見舞われ、ワールドシリーズ史上初めてのサスペンデッド・ゲームになるおまけまでついた。

リンドウ(竜胆):水彩で描く折々の花(壺齋散人画)


リンドウといえば、筆者の若い頃に、島倉千代子がこの花を歌ったことを覚えている。「リンリン リンドウは濃紫」と歌詞にあるとおり、日本のリンドウは濃い紫色をしており、しかもあまり開かないのが多い。かつては秋を感じさせる花の代表格で、山谷は無論田畑でもよく見かけたものだが、今では野生のリンドウを見かけるのは、山の中くらいだろう。



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