誰しも、少年時代から青年時代にかけて口ずさみ、生涯思い入れの深い歌やそれを歌った歌手の思い出を持っているものだ。筆者にとって、フランク永井はそんな歌手の一人だった。昭和30年代の高度成長期に東京で育った筆者にとって、フランク永井のあの低音の歌声は、いまでも少年時代の幸福な日々の追憶と結びついている。
フランク永井が「有楽町で逢いましょう」を歌ったのは昭和32年のことだ。この年にできたばかりのそごうデパートのイメージソングとして歌われたのだが、瞬く間に大ヒットした。当時小学生の低学年だった筆者のようなものでも、大人たちの歌うのを真似して歌ったほどだった。
その頃の有楽町は、映画館や劇場が集積し、すでに繁華街としてのイメージはあったが、数寄屋橋側には戦後の闇市の面影が残っていたりして、あまり洗練されたイメージではなかった。そこへそごうが進出し、ほぼ同じ頃丹下健三の設計になる都庁舎が完成したりして、町のイメージは急速に変わりつつあった。やっと軌道に乗った日本の高度成長が人びとの目に見えるようになってきたのである。
フランク永井のこの歌は、高度成長によって貧困を脱しつつあった日本人が、生活のゆとりや遊びの精神を、ようやく味わえるようになった事態に迎えられたといえる。なにしろそれまでの日本人は、その日をどうやってしのいでいくかに精一杯で、余暇を楽しむゆとりを持たなかった。生活の合間に口ずさむものといえば、りんごの歌のような景気付けの歌や、美空ひばりのように心を慰めてくれる歌、あるいはせいぜい浪花節くらいだったろう。
そこへ、フランク永井のしびれるような低音の歌声が流れ、しかも現世のしがらみから遊離した遊びの世界を歌ってくれた。人々はその歌声を聞いて、新しい時代の空気を感じとることができたに違いない。男女の出会いといえば、ラジオドラマ「君の名は」の中で展開されるすれ違いしか知らなかった人々だ。それがこの歌の中では、自由にデートを楽しめる世界が歌われていたのである。
そのフランク永井が死んだ。過去に自殺未遂をしたりして、決して平坦な生涯とはいえなかったようだが、享年76だというから、まあ天寿を全うしたといってもよい。筆者のようにその甘い歌声に魅了された経験を持つものとしては、同時代のヒーローとして冥福を祈りたい。
かつてフランク永井の歌った有楽町は、今は昔の面影をとどめないほど変わってしまっている。そごうデパートはつぶれて、その後にはカメラの量販店が入っている。東京都庁は新宿に移転して、その跡地には国際フォーラムの奇妙な建物が立っている。かつてそごうに接して立っていた朝日新聞の社屋はとっくの昔に壊されて、いまはマリオンになっている。そのマリオンに接して広がっていた低い屋並は再開発され、近代的なビルに建て変わった。
有楽町はこの数年の間に面目を一新し、東京でも最もトレンディな街として生まれ変わりつつある。
関連リンク: 日々雑感
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