李白は25歳の頃、蜀を出て長江を東へと下った。彼の生涯にわたる放浪の旅への出発である。この旅の当初の目的が何だったのか、またそれを支えた資産をどのように調達したのかについては、詳しいことは分っていない。とにかく李白はこの後二度と蜀に戻ることはなかった。
今日に残されている李白の1000首余りの詩の中で、傑作といえるものは、この放浪の開始と期を同じくして作られている。旅が彼に思索のイメージを豊富に提供したのだろう。
長江を船で下った李白はまず江陵に足を止める。江陵では有名な道士司馬承禎と出会い、道教への関心を深めている。その後更に長江を下り、長沙、金陵(南京)、揚州に遊んだ。この旅ではかなり派手に金を使ったらしく、「落魄の公子」の救済に30万金を費やしたというのは伝説になっている。この金の出所は無論分らずじまいである。
27歳の頃に湖北省の南陸というところにやってきた李白は、どういうツトによってかわからないが、その地の名門でかつて高宗の宰相を勤めた許御史の孫娘と結婚し、市の郊外白兆山の麓に居を構えた。安陸は武漢の西北にあり、白兆山はその安陸の西北郊にある500メートルほどの山である。
安陸での落ち着いた結婚生活はそう長くは続かなかった。三十歳代に入ると、安陸を拠点に広い範囲を旅行して歩く。孟浩然と出会ったのは30歳のころ、襄陽においてであった。
30歳代の半ばには、洛陽に遊び、そこで知り合った元参軍を頼って更に山西の太原に遊んだ。李白は旅の傍ら猟官運動などもしたようであるが、ことごとくうまくいった気配はない。
その後山東に赴き、泰山に程近い徂徠山にこもった。ここでは孔巣子などと交流を深め、その超然とした生き方が「竹渓六逸」と称された。
山東を出た李白は再び放浪を始めたようだ。38歳の時には揚州にいたらしく、42歳の頃には山東に戻って泰山に登ったりしている。そして同じ頃に折江省にいた道士呉筠を尋ねた。彼が玄宗の宮廷に召されるのは、この呉筠の口利きがあったからだとされている。
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