子規の病

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正岡子規が明治22年5月、まだ21歳という若さで大喀血に見舞われ、それを契機にして病気と闘う運命に陥ったことについては、前稿で述べた。またこの病気つまり肺結核が、己自身に子規と名付けさせるきっかけになったことも、前稿で述べたとおりである。

だが子規が喀血に見舞われたのは、これが最初ではなかった。前年の明治21年夏、子規は向島にしばらく滞在したが、その折に鎌倉に遊んだことがあった。

 しらぬ海や山見ることのうれしければいづくともなく旅立ちにけり

と詠んで鎌倉まで来てみたはいいが、着いた二日目に大雨となり、子規はその雨の中を頼朝の墓から鎌倉宮に向かう途中、二度にわたって血を吐いた。それでもたいしたことには思わずに、そのまま風雨をついて歩き続けたと、「筆まかせ」に書いている。だからこのときには結核との認識もなく、まして治療しようとの考えも浮かばなかった。

明治22年の喀血にはさすがの子規も驚いただろう。五月二日の夜に二度にわたって大量の血を吐いたほか、翌日にも喀血しているのである。しかしこのときにも、喀血そのものには驚きながら、真剣になって治療しようとした形跡は見受けられない。

子規はその年の夏休みに郷里の松山に戻るが、そこでもまた喀血した。この時も気管支が炎症を起こしているのだろうくらいに、たかをくくったらしい。もしこの時に、きちんと治療をしていたら、あるいは子規の命はもっと永らえたかもしれない。

結核の本格的な兆候が現れるのは、明治28年、満州へ従軍した帰りに、日本へと向かう船の中でだった。

5月14日大連を出向した佐渡国丸という船に乗っていた子規は、甲板の上で突然血を吐いた。船中には医師らしきものはいたが、結核の薬など持ち合わせていなかったので、子規の喀血は止まらない。狭い船倉の中でじっと耐えて過ごさねばならなかった。船はやがて、5月18日の午後に馬関についたが、戦中でコレラ患者が発生したことを理由にすぐに下ろしてもらえない。

21日の夕方、和田岬の検疫所に行くことが決まり、翌日の午後には到着したが、それでもなかなか下ろしてもらえない。ようやく23日の午後になって赦免されたときには、子規の体力はほとほと弱っていた。

子規は歩くこともできない有様なので、釣り台に乗せられて神戸病院に担ぎ込まれたのであった。

神戸病院での療養は2ヶ月にわたった。入院後も喀血はとまらず、一週間後には危篤の状態に陥った。この時子規の病を気遣った陸羯南が京都にあった高浜虚子に連絡し、病状を見舞いに行かせている。

しかし子規は何とか死期を脱出できた。6月4日には河東碧梧桐が子規の母を伴って見舞いに駆けつけた。そして6月10日頃には血痰を見ないようになった。

2ヶ月におよぶ神戸病院での療養後、子規は須磨保養院に移って療養した。このときにも、本格的な療養をしておれば、もしかしたら寿命を延ばせたかもしれなかった。しかし子規は、病院の中でいつまでも閉塞していることには耐えられなかった。8月の半ばにはさっさと退院してしまうのである。

退院した子規が向かった先は故郷の松山だった。そこには一校時代以来の親友漱石が、松山中学の教員として赴任していた。子規はその漱石の下宿に居候し、ほぼ50日間を一緒に過ごす。それは子規にとって生涯でもっとも幸せな時期だったかもしれない。

10月半ばに子規は東京へ戻ることにしたが、その途中に奈良に立ち寄った。奈良は子規が以前から是非訪れてみたいと思っていた所だった。だがその頃になって、今度は腰痛に悩むようになった。子規はその痛い腰をなだめながら奈良の社寺を見物して回った。

 行く秋の腰骨痛む旅寝かな

子規自身はこの腰痛をリュウマチのせいだと思っていたが、実は結核がもとで脊椎カリエスを起こしていたのだった。子規の晩年を壮絶なものとした病気である。

こうして子規は既に20台にして、肺結核と脊椎カリエスという恐ろしい病に取り付かれることになった。死ぬ年の35歳まで、途中小康の時期を挟んだとはいえ、ずっと苦しい思いをしながら生き続けるのである。


関連リンク: 日本文学覚書正岡子規:生涯と作品

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    このページは、が2008年12月27日 20:15に書いたブログ記事です。

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