長安の李白

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李白が長安に召されたのは742年(天宝元年)の半ば頃だった。道士仲間の呉筠が先に朝廷に仕えており、彼の李白についての言葉が、何らかのルートで玄宗の耳にも聞こえ、召されることになったのだろうと推測されている。玄宗の妹の玉真公主が熱心な道教徒であったことから、恐らくこの女性の介在によって李白の朝廷入りが実現したのではないか。

李白は翰林供奉という職を与えられた。これは翰林院という皇帝の私的なサークルに仕え、皇帝の外出や儀式に伴って、記念的な詩を作るのが主な役目だった。同僚には当時有名だった多くの詩人がいたようだ。李白はこの職にある間、玄宗に命じられていくつかの詩を作り、また楊貴妃に陪従して温泉に遊ぶ詩を作ったりしている。

長安で李白は二人の友人を作った。一人は賀知章で李白より40歳以上も年上だった。豪快な性格で多くの逸話を残していることから、互いに似たもの同士の親密さを覚えたのだろう。この賀知章は李白をる鏑仙人と渾名した。地上に追放された仙人という意味である。これに対して李白は、賀知章が死んだときに友情にあふれる詩をささげて、敬意を表した。

もう一人は崔宗之であった。この男には李白はすでに30歳代の始に出会っており、あまり敬意を感じては居なかったが、長安で再開して交友を深めた。この男の子とは、元参軍に当てた詩の中でも歌っている。

李白は翰林供奉という職に満足していなかったようだ。妻子と別れて長安に旅立つ際に、「我輩は豈に是れ蓬蒿の人ならんや」と高らかに歌ったように、その志は立派な政治家になることだった。ところが現実の待遇は幇間に近い。李白は徐々に内心に不満が高まっていくのを感じるようになる。

長安時代の李白の詩に、酒を歌ったものが多いのは、そんな内心の表れとみることもできる。李白は賀知章や崔宗之も含めて「飲中の八仙」などと綽名され、その名にたがわぬ飲みっぷりを示すと共に、酒を歌った詩を多く作った。

李白にはまた敵もいた。その一人は張垝で、この男は李白が中書省の役人に任命されようとしたとき、それを妨害して取り消させた。

もうひとりは高力士である。高は宦官で信心深い仏教徒だった。だから呉筠らの道士が朝廷に影響力を振るうのを我慢できなかった。李白もその仲間とみなされ、敵対心の対象となった。李白はあるとき酔っ払って、高力士に自分のはいていた靴を脱がさせるという非礼を行ったことがあったが、それ以来高力士は李白を異常に憎むようになった。

李白が失脚するきっかけを作ったのは高力士だった。李白の詩の中に、楊貴妃を趙飛燕にたとえたものがあったが、高力士はそれが玄宗を侮辱したものだとして讒言したのである。玄宗は高力士の言を容れて、ついに李白を追放してしまった。


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    このページは、が2009年2月17日 21:23に書いたブログ記事です。

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