李白後半生の流浪の旅:偉大な創造の時期

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744年(天宝三年)長安を追われた李白は黄河を下って魯(山東)へと向かった。その途中洛陽で杜甫と出会い、汴州で高適と出会う。意気投合した三人は共に河南に遊んだ。そして翌年の春、李白は魯の石門で杜甫と別れ、東魯の沙丘というところで結婚して家を持った。これは李白の三度目の結婚であり、妻との間に二人の子を設けている。後に「東魯の二稚子に寄す」という詩の中で歌っている子どもたちは、この結婚で生まれた子であると考えられる。

746年頃、李白は結婚生活もそこそこに、再び放浪を始める。最初は金陵(南京)を拠点に呉越に遊んだりしたが、やがて范陽(北京)に向かった。その地で羽振りを利かせていた安碌山を見込んで仕官しようとしたのだろうとする説もある。

途中立ち寄った邯鄲では、李白は国境警備に向かう大部隊をみた。また范陽では強大な軍事力を一身に集めた安碌山を見て、そこに不吉な意図を感じ取ったらしい。李白は仕官せずにそのまま引き下がった。

748年頃には再び金陵に戻っている。それ以降753年頃までの李白の足取りはあまり確かではないが、河南を中心にして時折山東をいったり来たりしていたようだ。この期間に、「戦城南」を始め、李白有数の傑作といわれる作品が書かれたものらしい。ウェイリーはこの時期を李白の「偉大な創造の時期」と書いている。

753年(天宝12年)頃、李白は安徽省の長江流域の都市宣城に来た。敬愛する六朝時代の詩人謝兆が太守を勤めていた地である。ここを拠点に、揚州や秋浦にも足を伸ばした。

李白は宣城に755年まで滞在したが、その年に安碌山の乱が始まり、中国全土が戦火に巻き込まれるようになった。身に危険を感じた李白は長い放浪生活を切り上げて、魯山に隠棲する決意をするのである。


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    このページは、が2009年4月 7日 19:01に書いたブログ記事です。

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