奈良興福寺の阿修羅像が、上野の東京国立博物館で展示されている。この像が寺を離れるのは、実に60年ぶりのことだそうだ。興福寺が創建1300年を迎えるにあたり、徳川時代に消失した中金堂の再建を図るために、その資金を募ろうとの思いから、寺の当局が格別の決断をした結果、こうして東京は上野の山の博物館に、その尊顔をお出ましにされたという次第だ。
この像は一見してわかるとおり、実に繊細にできている。脱活乾漆造といって、麻布を漆で固めたものだ。指を触れただけで壊れてしまいそうだ。だからおいそれと長い旅をさせて、外の場所に移動するなどは、なかなか考えられることではない。移動の最中に壊れてしまう恐れが多いからだ。実際今回この像を東京に運ぶにあたっては、職人たちの並々ならぬ努力があったと、先日のNHKの特集番組が伝えていた。
そんな阿修羅像を、筆者はいままでに何回か見たことがある。奈良に旅行するたびに、この像を見ないですむことはなかった。そんないきさつがあるから、近くに来ているからといって、普通ならわざわざ出向く気持ちにはならないところだが、今回はいってみたいと思うようになった。
興福寺では、ガラス張りの展示ケースを通してしかみることができない。目に入ってくるのは、正面を向いた姿だけである。後姿は無論、横からの眺めも十分には見られない。ところが今回は、大きな空間の中にでんと構えるような形で立たれ、360度いづれの角度からも見られるように展示されている、その様子をNHKが詳しく紹介していたのに接して、是非直接見てみたいと思うようになったのである。
NHKの宣伝が功を奏したのか、博物館は連日超大入りの盛況だそうだ。筆者が見に行ったのは平日のお昼ごろだったが、すさまじい混雑振りで、会場の平成館に入るまでに1時間以上も列ばされた。だが行って良かったと思う。
展示スペースに入るとまず、鎮壇具とよばれる古代の装飾品の展示から始まり、十大弟子(今回は五体)、八部衆(阿修羅の外に四体)の展示があり、阿修羅像はその先の独立した空間に展示されていた。
先日の日光、月光両菩薩のときと同じく、最初は少し高い場所から阿修羅像を見下ろすように工夫されている。ここで像の全体像を目にした後、床に下りて像と同じ高さの目線で、360度の角度から見ることができる。
できるといっても、周りに人がいなければゆったりと見られるかもしれないが、とにかくすさまじい人が群れ集まっている。だからのんびりと眺めているわけにはいかない。人の動きに促されて体が無理やり動いていくところを、なんとか視線を像に集中させなければならない。
こんな異常な状況の中でも、筆者にはいささか得るところがあった。まず、三つの顔をいろんな角度から眺めることができたことだ。正面の顔がきりりとしまった少年の顔であることは、興福寺で見たとおりだ。それと比較して、左右についている顔は非常に異なった印象を与える。
向かって左側の顔は眉毛と目じりを吊り上げ、唇をきつく噛んでいる。怒っている表情とも、自分自身にうろたえている表情とも受け取れる。右側の顔は、唇こそかんでいないが、眉毛も目尻も心持ち釣りあがり、やはり感情の激しい動きを表している。それに比べれば、やはり眉毛を吊り上げた正面の顔は穏やかに思えるほどだ。
それぞれの顔が表現している感情の起伏は、横顔によく現れている。左側の顔は横から見るといっそう苦悩している様子に見えるし、右側の顔は意思の強さをいっそう強く感じさせる。正面の顔はそれに比較するとずっと穏やかに見えるのだ。
六本の腕も、前面から見ると平面的に見えるが、横からあるいは背後から見るとまったく異なった様相に見える。正面からだと、合唱している一対の手がメインで、そのほかは付け足しのようにしか見えないのが、横からあるいは後ろから見ると、みな一様に重い存在感を主張しているのだ。
それにしても、1000年以上も前に作られた、しかも壊れやすい素材でできている像が、今日まで生き残ったというのは、想像を超えた出来事だといえる。興福寺は何度か大火災に見舞われているが、そのたびに無事に生きながらえてきたのだ。僧侶たちが、何者にも先駆けてこの像を抱いて逃げたからだといわれるが、この像自身の中にも、たくましい生存への意思があったのだろう。
こんなんわけで、短い時間の間に垣間見たに過ぎないけれど、筆者は阿修羅像の持つ底知れない魅力の一端に、接することができたように感じた。
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