リチャード三世という劇は、冒頭のリチャードの独白の中で示された彼の野望が次々と実現されていくという構成をとっている。一人の男の野望が、世界全体を動かしていく原動力になっているのだ。その野望のなかで、リチャードが最初に実現させるのが、アンへの求愛だ。
アンはヘンリー六世統治下における皇太子の妻である。その皇太子はリチャードによって殺された。リチャードはまたアンの父親ウォーリックも殺し、いまやヘンリー6世そのものも殺した。したがって、リチャードはアンにとっては、夫と父親、そして義理の父たる先王の仇なのだが、なぜかそのアンをリチャードはものにしようと願う。
シェイクスピアは、この理不尽な欲望とそれが実現されていく過程を淡々と描く。それを眼前に見せられる観客たちは、リチャードの意思の強さに感心するとともに、敵に身を任せるにいたる女の弱さに、不思議な必然性を感じ取る。巨大な力をもった運命の前では、個人的な怨念などほとんど意味をもたないのだ。
リチャードがアンを説き伏せる場面は、劇の冒頭におかれているだけに、これから進んでいくであろう、劇全体の雰囲気を決定付けるものになっている。リチャードは、仇敵の怨念さえ解け去らせて、彼女を自分のものにしてしまう。その意思の前には、あらゆる障害は乗り越えられ、リチャードは運命の主人公になっていくであろう。
まずアンの一行がヘンリー六世の棺を担いで舞台に出てくる。それをリチャードが引きとめる。従者は道をあけるようにリチャードに懇願するが、リチャードは彼らを一括してその場から去らせ、アンと二人だけになる。
リチャードと対面したアンは、激しい言葉でリチャードを罵り、リチャードに天罰が下されるようにと呪いの言葉を浴びせる。
アン:恥を知れ このかたわ者め
お前の姿を見て すでに干からびたはずの
血管から血が吹き出てくるわ
お前のけだもののような行為に
死者の血が意気たっているのだ
この血を作られた神よ 王の死に復讐を!
この血を飲み込んだ大地よ 王の死に復習を!
天よ この殺人鬼を雷で撃ち殺せ!
大地よ 口を開けてこの殺人鬼を飲み込め!
リチャード:そなたは慈悲というものを知らぬものと見える
悪には善を以て報い 呪いには祝福で報いるのが慈悲というもの
アン:悪党め 神の掟も人の掟も知らぬくせに
どんな獣でさえ 哀れみの情を知らぬということはない
リチャード:わしはどんな情も知らぬゆえ けだものではないわけだ
LADY ANNE ;Blush, Blush, thou lump of foul deformity;
For 'tis thy presence that exhales this blood
From cold and empty veins, where no blood dwells;
Thy deed, inhuman and unnatural,
Provokes this deluge most unnatural.
O God, which this blood madest, revenge his death!
O earth, which this blood drink'st revenge his death!
Either heaven with lightning strike the murderer dead,
Or earth, gape open wide and eat him quick,
GLOUCESTER ;Lady, you know no rules of charity,
Which renders good for bad, blessings for curses.
LADY ANNE ;Villain, thou know'st no law of God nor man:
No beast so fierce but knows some touch of pity.
GLOUCESTER ;But I know none, and therefore am no beast.
アンの激しい攻撃に、リチャードは少しもひるまない。最初こそ自分は何も知らぬなどと白を切っているが、そのうち王を殺したことを認める。認めたうえで、その殺人者である自分を、愛するようにとアンに求める。
グロスター:王には礼をいってもらわねば
天国へ行く手助けをしてあげたのだから
アン:お前の似合うところは地獄だ
グロスター:さよう ほかにもうひとつ似合うところがある
アン:地下牢だろう
グロスター:そなたの寝室じゃ
GLOUCESTER;Let him thank me that help to send him thither;
For he was fitter for that place than earth.
ANNE;And thou unfit for any place, but hell.
GLOUCESTER;Yes, one place else, if you will hear me name it.
ANNE;Some dungeon.
GLOUCESTER;Your bed chamber.
この場面で、アンはすでにリチャードの手中にはまってしまう。敵は自分の罪状を認めた上で、なおかつ、ふてぶてしくも、自分に求愛している。そんな敵をどううけとめればよいのか。
リチャード:わしの行いのもととなったのは そなたの美しさなのじゃ
そなたの美しさが 寝ても醒めてもわしの心を捉え
世界中の破滅と引き換えにしても
そなたの優しい胸にひと時の安らぎを得たいと願わせたのじゃ
GLOUCESTER ;Your beauty was the cause of that effect;
Your beauty: which did haunt me in my sleep
To undertake the death of all the world,
So I might live one hour in your sweet bosom.
リチャードは、自分の美しさに目がくらみ、自分が欲しいがために罪を犯したのだ、そうアンは思わずにはいられない。そうなると、リチャードはもはや仇としてではなく、一人の男として自分の目の前にある。
一方リチャードのほうは、アンを手に入れるために、無理なことは何もしていない。自分の荒々しい欲望をじかにぶつけることによって、女の心を獲得しようとしている。
これが恋愛の場を描いたものとは、観客の誰も思わないだろう。あるのは男と女の駆け引きだ。その駆け引きの中で、女は結局男を受け入れてしまう。
アン:あなたの心が知りたい
グロスター:それは舌が伝えるとおり
アン:どちらも偽りでは
グロスター:それなら誠実な男などはどこにもいないことになる
アン:わかったわ、その剣を収めてください
グロスター:わしの願いはかなうのだろうか
アン:いずれわかるでしょう
グロスター:希望をもってもよいということか
アン:だれでもするとおりのこと
グロスター:では誓いのリングを納めてほしい
アン:納めることは身を預けることを意味しませんよ
LADY ANNE: I would I knew thy heart.
GLOUCESTER: 'Tis figured in my tongue.
LADY ANNE: I fear me both are false.
GLOUCESTER: Then never man was true.
LADY ANNE: Well, well, put up your sword.
GLOUCESTER: Say, then, my peace is made.
LADY ANNE: That shall you know hereafter.
GLOUCESTER: But shall I live in hope?
LADY ANNE: All men, I hope, live so.
GLOUCESTER: Vouchsafe to wear this ring.
LADY ANNE: To take is not to give.
シェイクスピアは、この後も男女の恋愛を描き続けていくが、リチャード三世のこの場面が、それらのモデルになっているとはいえないかもしれない。しかしどんな恋愛も、その底には、男女の心の駆け引きを潜めているという態度は貫いている。リチャード三世のこの場面は、そんな駆け引きをあからさまに映し出したものだといえないこともない。
ともあれ、アンを手に入れたリチャードは、それで気をよくして、自分の野望の実現に次々と取り掛かっていく。野望は次第に規模が大きくなる。ひとつの野望が実現されると、それは次の野望を実現するための踏み台として利用される。
こうしてアンも、やがてはリチャードにとって邪魔な存在へと変わっていき、ついには殺されることになるだろう。
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