今年も原爆記念の日が巡ってきた。毎年この日の前後には、核の問題についてのさまざまな議論が巻き起こるが、今年は例年とはやや違った空気が流れた。長崎市長が、アメリカ・オバマ大統領の核廃絶演説に応えて、世界中にオバマ大統領を支持するように呼びかけたことは、象徴的な出来事だった。先にファッション・デザイナーのイッセイ・ミヤケ氏がオバマ大統領に対して広島訪問を呼びかけたことに続いて、長崎への訪問も呼びかけた。
広島、長崎に原爆が投下されてから、今年で64度目の夏だ。被爆者の多くはすでに世を去った。生存している人も、自分の被爆体験について語ることは、これまで余りなかった。被爆体験の想像を絶した過酷さと、被爆者であることが偏見の的になることへの恐れが、彼らの口を閉ざしてきたのだろう。
しかし最近になって、被爆者たちは自分の体験を率直に語り始めたように思える。このままでは被爆したことについての、日本人の民族としての記憶が風化し、後世の人たちが原爆の非人間性を正しく受け止められなくなるのではないか、そうした切羽詰った感情が、彼らの口を開かせているのかもしれない。また被爆後60年以上を経て、被爆体験そのものを、生々しい現実としてだけではなく、歴史上の出来事として客観的に語りうるような状況が生まれているからかもしれない。
NHKの特集番組「あの日僕らの夢が消えたー被爆学校生徒たちの64年」は、そうした被爆者たちの率直な語り口を伝えていた。筆者はそれを見て、大いに考えさせられるところがあった。
長崎にあった旧制中学校鎮西学院は、爆心地からわずか500メートルの地点に位置していたため、原爆によって壊滅的な打撃を受けた。大勢の生徒が死んだと思われるが、その詳細については、資料が消滅してわからないままでいた。また生徒たちのその後の消息についても、ほとんどつかめていなかった。
ところが被爆直前の在校生の写真17枚が偶然発見され、それをもとに、被爆時の状況や生き残ったものたちのその後の消息をたどりなおす試みがなされてきた。その結果生死を含めて消息がまったく不明だった380人の生徒のうち、287人についての消息がわかってきた。原爆で死亡していたことが確認されたものもいるし、生き残った後、ほかの地域で苦難の人生を歩んでいたものもいた。
番組は、生き残った人たちの痛切な思いを伝えていた。筆者は彼らの言葉を聞いて、存在を揺さぶられるような思いがした。
彼らはみな、一様にいうのだ。何故仲間たちが死んで、自分だけが生き残ったのかと。生き残ったものは、生き残ることによって塗炭の苦しみを嘗めなければならなかったのに、彼らはそれを原罪のように受け止めているのだ。
彼らは生き残ったことを罪だと感じる。何故死んだものたちと一緒に自分も死ななかったのか、何故生き残ってしまったのか、そのことがいまだに彼らを苦しめている。仲間が死んでいったことは、彼らの罪ではなく、原爆を落としたものの罪に違いないのに、彼らは原爆を落としたものを責めることはせずに、生き残った自分自身を責め続けるのだ。
原爆についてやっと語りだした被爆者の言葉が、自分自身を責める言葉だとは、なんともやりきれない気持ちになるではないか。
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