夏の風物詩花火が全国各地で催されている。筆者が住んでいる船橋の北の郊外では、昨夜(八月二日)中山競馬場で花火があげられ、その様子が筆者の家からもよく見えた。隅田川のようには派手ではないが、夕涼み気分を味わうには十分だ。縁側にロッキングチェアを持ち出し、それに腰を埋めながら見物としゃれ込んだ。写真はその折にとったものだ。
最近の花火は、規模は小さくても、工夫が行き届いていると見えて、かわった模様のものが見られるようになった。猫の形をしたものや、パンダの形をしたものなど、どんな風にして作り出すのかと、不思議に思いながら楽しく見た。
この前の晩には江戸川の花火の音が聞こえてきた。最初は雷鳴かと思ったくらいだから、現地ではかなり大きな音を立てているのだろう。だが筆者の家からは遠すぎて、光の模様は見えない。
花火を見ると思い出すことがある。筆者が以前住んでいた佐倉では、印旛沼で大きな花火が打ち上げられる。毎年八月の始めにあげられるのだが、お盆の迎え火のようだといって、地元の人は楽しみにしている。
これが始まったのは、たしか筆者が高校生の頃だったと思う。友人と一緒に印旛沼の近くまで歩いて出かけて、間近に見たことを覚えている。その帰り道に、生まれて初めてワインを飲んで、ひどく悪酔いしたものだ。
この花火を我が先考も楽しみにしていて、毎年二階のベランダから見ていた。だが年をとって階段を上り下りするのも難儀するようになると、二階にあがるのをあきらめて、地上から見ようとするのだが、地上からでは近所の家が視界をさえぎってよくみることができぬ。そこで筆者に二階へつれていけという。
筆者は親父を背中におんぶして、狭い階段を二階へと上っていったものだ。親父はやはりここがいいといって、満足そうに花火を見続けている。筆者はそんな親父の横顔を見ながら、随分軽くなったものだなと、へんな関心をしたりする。そんなことをふと思い出すのだ。
花火が終わると、やがてお盆が来る。そのときは花火ではなく、自分の手で迎え火をたかなくてはならないだろう。
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