望嶽 : 杜甫泰山を詠む

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杜甫の詩で今日に伝わるものは1400首余りに上る。だがそれらのうち30歳以前のものは数えるくらいしかない。大部分は40歳台半ば歳以降に書かれたものだ。だからといって、杜甫が若年の頃に詩を作らなかったとはいえない。晩年にいたって自分の詩を整理した際に、未熟のものを残さなかったからだというのが、通説である。

杜甫という詩人は、年をとるにつれて詩作に深みを増すタイプの詩人だった。今日代表作と目されるものの多くは、生涯の晩年を迎えてからの作品である。それらは、中国の詩人としては破格といえるほど、人間の内面に深く立ち入っている。

杜甫の生涯は決して順風満帆とはいえなかった。むしろ蹉跌に彩られた生涯だったといえる。しかもそれは晩年に向かうにつれて、ますます複雑な様相に彩られるようになる。生きた時代そのものが激動に向かって走っていた。そして杜甫自身その激動に巻き込まれていった。彼の晩年の詩は、外的内的両面における激動を飲み込んで、ますます陰影を深くしていった。そこから漢詩の歴史上にもまれな緊張感に満ちた詩が生み出されたのだといえる。

そんな杜甫の、若い頃の詩を代表するものが、ここにあげた「望嶽」である。開元28年(740)29歳のときの作品である。

杜甫の五言律詩「望嶽」(壺齋散人注)

  岱宗夫如何  岱宗 夫れ如何
  齊魯青未了  齊魯 青未だ了らず
  造化鍾神秀  造化 神秀を鍾(あつ)め
  陰陽割昏曉  陰陽 昏曉を割(わか)つ
  盪胸生曾雲  胸を盪(うご)かして生曾雲じ
  決眥入歸鳥  眥を決して歸鳥入る
  會當凌絶頂  會ず當に絶頂を凌ぎて
  一覽衆山小  一覽 衆山を小とすべし

岱宗と称される泰山とはそもそも如何なるものなのか、齊と魯と二つの国にまたがって緑は果てしなく続いている、造化の神はここにその巧みを結集し、陰陽と昏曉とがここでわかれるように配置した

その高い峰々に雲が湧き上がるのを見ると我が胸は高鳴り、眦を決して鳥が塒に帰るさまを見る、是非この山の頂を制して、周囲に無数の山を従えているさまを一覽したいものだ


岱宗は魯の名峰泰山のこと。泰山は五山(西岳華山、南岳衡山、北岳恒山、中岳崇山、東岳泰山)の首座とされ、中国の山岳信仰のなかで最も崇拝されていた山である。春秋時代から中国の帝王たちが「封」という天をまつる儀式を執り行ってきたところであり、帝王が自分の支配の正統性を宣言する聖なる山であった。

その聖なる山を歌うことによって、若い杜甫が言いたかったことは何か。





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泰山鳴動して鼠一匹 と姉が可笑しそうに言いながら息子(私の甥っ子)のオシメを変えてたのを思い出します。 もう50年近く前の事です。

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このページは、が2009年8月19日 19:04に書いたブログ記事です。

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