カゲロウは羽化してからの寿命が極端に短いことから、日本人の感性にとっては、はかなさの象徴となってきた。ヨーロッパにおいても、カゲロウの命のはかなさは目を引いたらしく、英語でカゲロウを表す Ephemera という言葉は一日限りという意味だそうだ。
だが幼虫時代をあわせると、カゲロウの命は半年から一年ほどで、昆虫の中でもとりわけ短いというわけではない。ただ羽化してからの命が極端に短いのだ。通常午後になって水から飛び出し、半成虫、成虫と二度にわたり羽化をくりかえし、夕方までには死んでしまう。羽化の季節は早春から晩秋に掛けての長い期間をカバーしているが、初夏に羽化するものがとりわけ多いらしい。
こんなわけだから、羽化したカゲロウはわずか数時間の間に配偶者を見つけ、子孫を残さねばならない。それは時間との勝負だ。脱皮する場所を選んでいる余裕はない。とまれるところであればどこでも止まり、そこで脱皮する。人間や家畜の体にもいとわずに止まる。それが鳥たちにとって格好の餌となる理由でもある。
ところでこのカゲロウは、日本文学の中でどのように取り上げられてきたか。もっとも早い例のひとつに「蜻蛉日記」があげられる。文中に「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」という表現があって、ここから「蜻蛉日記」という題につながったといわれるが、ここで言われているカゲロウは「あるかなきかの心ちする」はかなさの象徴として捕らえられている。
また源氏物語には浮舟入水の段で、はかなくも行方不明になってしまった浮舟の運命を、薫が悲しんで詠んだ歌が載せられている。「ありとみて手には取られず見ればまた 行方も知らず消えし蜻蛉」
これは今までいたと思っていたものが、いつの間にか消えてしまったことの、はかなさについての感情を歌ったものだ。
このように日本人は、平安時代の昔からカゲロウをはかなさの象徴として捕らえ、それを文学の中でも表現していたことがわかる。ではそのカゲロウという言葉は、どんな語源を有しているのか。
諸説あるが、もっとも有力なのは揺らめく空気である「カゲロウ=かぎろひ=陽炎」からの類推だとする説だ。カゲロウは大発生して視界を閉ざすほど密集し、それが白く揺らめいているように見えることがある。そのさまがあたかも「陽炎」を思わせることから、カゲロウと名づけられたのではないかというのだ。
陽炎を歌ったものとしては人麻呂の歌が有名だ。「東(ひむかし)の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ」
この空気の揺らめきたる陽炎が、あの生きているカゲロウの作り出す幻想的な眺めだと考えても、歌の趣旨はそこなわらずに伝わってくるようである。
生まれた日に死ぬ運命の本当に儚い命の虫。その儚さが昔からアッピールし続けて来たのでしょうね。 お花、お茶にも通じますね。