古代の日本人はどのような住居に住んでいたか。それを最初に視覚的に復元したのは登呂遺跡の竪穴式住居だった。直径数メートルの円形の竪穴の内側に四本の柱を立て、それを梁と桁にあたる水平材で固定し、その上に屋根を支えるための垂木を架け、茅葺の屋根が載せられた。歴史の教科書にも採用されているから、大方のひとはそのイメージをもっていることだろう。
これを再現するに当たっては、考古学者たちに確固としたよりどころがあったわけではない。何しろ彼らの頼りにした材料といえば、踏み固められた竪穴と、柱の土台となった穴の跡だけだ。この穴に柱を立て、その上に屋根を載せたのだろう、それくらいの手がかりしかなかった。
そこで彼らは、近世の高殿とよばれる砂鉄製錬所の建物に注目した。竪穴の形や柱を立てるための穴の形がよく似ていたからである。そこで彼らはこの建物をモデルにして登呂遺跡の竪穴式住居を再現したのである。
砂鉄製錬所は多数の人間が作業する空間であるから、地上にある程度高く立ち上がっていた。弥生時代にもそのような形の建物があっても不思議ではない。そんなところから、このモデルは一定の評価を受けた。
その後弥生時代や、それより古い縄文時代の竪穴跡が次々と発見されるうち、果たして登呂遺跡の再現モデルが正しいのかどうかについて疑問が深まっていった。なにしろそれは、近世の建物をよりどころにしている。古代の建物とどれほどの近縁性を保っているのか、科学的に確証できるものがないからだ。
1985年に始まった群馬県の中筋遺跡が、この疑問に一定の答えを出してくれた。この遺跡は榛名山の噴火の際の灰によって埋没したもので、損傷は激しいながら、構造部材の痕跡が確認され、そこから建物の構造がある程度詳しく推測できたからだ。
この遺跡からわかった竪穴住居の特徴は二点、ひとつは屋根の勾配が登呂遺跡の再現モデルよりずっと急で、その一端は地面に届いているらしいこと、裏返せば建物の高さは登呂遺跡の再現モデルより低かったと考えられること、二つ目は、萱などの草で屋根を葺いた上に土を載せていたこと、である。
屋根が低いことは、長い木材を用いる必要性がなく、したがって簡単に家が作れ、しかも修繕にも好都合だ。また屋根に土をかぶせることは防寒の役に立つ。そんなところから、弥生時代における竪穴住居の姿は、中筋遺跡のモデルに近かったのでないかと思われるようになった。
以上のような発見を踏まえ、その後竪穴住居に関する研究は次第に進んできた。竪穴の形にも色々あること、柱の数も四本以上のものが見つかり、したがって相当大きな竪穴住居が存在したこと、出入り口のほかに窓がないため、住居の内部は暗かったと思われること、また土間の一隅には、調理や暖房を目的とした炉が設けられていたことなどである。
(上の写真は、中筋遺跡などを考慮しながら、登呂遺跡の竪穴住居の骨組みを改めて再現したものだ。屋根の端は地上まで届き、建物というより土饅頭のような塚を思わせること、また竪穴の周囲を盛り上げて水の浸入を食い止めていることなど、古代人の工夫が伺えるようになっている。)
ところで日本人の祖先はなぜ自分たちの住まいとして竪穴住居を選んだのか。竪穴に住んだ民族は日本人以外にも確認されているから、孤立した現象ではないが、日本人の場合には縄文時代の初期から始まり、庶民の間では平安時代まで(東北地方の一部では室町時代まで)住み続けている。それほど息の長い居住文化だったのだ。
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