ヘンリー五世 HenryⅤ:シェイクスピアの歴史劇

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ヘンリー五世は、シェイクスピアの歴史劇の中では独自の雰囲気を持つ作品だ。他の歴史劇にあるような、王権をめぐる血なまぐさい闘争は、ここではフランスを相手に繰り広げられる国家間の戦争の場面へと変わっている。それはそれで血なまぐさい光景を伴ってはいるが、テーマはあくまでも愛国的な精神に彩られている。そんなところから、この劇はシェイクスピアの愛国精神を盛り込んだ作品だとする解釈がなされてきた。

シェイクスピアがこの劇を書いたときは、フランスとの百年戦争が終わってそうたっていない時期だった。百年戦争は、イギリスの歴史上において、もっとも苦難に満ちた戦争であり、イギリス人はこの戦争を勝ち抜くことによって、始めて民族としての一体性を確立した。その苦しい戦争の歴史において、ヘンリー五世は最大の英雄であったのだ。

この劇は、英雄としてのヘンリー五世をたたえる言葉で満ちている。その言葉には、イギリス人の民族の誇りに訴えかけるものがある。

そういう事情が作用したのだろう。この劇は、イギリスの対外戦争の節目節目で、必ず演じられてきた。観衆はこの劇の中で絶叫されるヘンリー五世の愛国的な言葉に陶酔して、戦意を高められるのを感じ続けてきたのだ。

最近行われたイギリスによるイラクへの介入に当たっても、イギリス政府は、兵士たちの戦意を高揚させることを目的に、詩のアンソロジーが配ったということだが、そのなかに、この劇からとられた言葉が多く採用されていたということだ。21世紀に入ってもなお、ヘンリー五世はイギリスの英雄であり続けているのだ。

先の世界戦争の最中、日本の軍部が御用商人どもを動員して、情けない愛国歌謡を垂れ流す一方、前線の兵士たちに荷風散人の花柳小説を配ったこととは、著しい対象をなしている。

ヘンリー五世は、「ヘンリー四世」の中では、フォールスタッフという希代の道化役者を相手に、あれほど破天荒な遊びに耽っていたというのに、この作品では、その片鱗はいささかも感じさせない。冒頭の部分で家臣たちが称えているように、ヘンリー五世はいまや非の打ち所のない名君として生まれ変わり、勇ましい青年王として、フランスを相手に正義の戦争を仕掛けるのだ。

批評家のなかには、この作品を軽く見る傾向もある。国威発揚と戦意高揚が目的なら、そう見られても仕方がない。しかしシェイクスピアは、この劇をたんなる愛国劇には終わらせていない。

まず百年戦争そのものの描き方が、一筋縄では受け取れない。戦争は正義だけで行われるわけではないということを、シェイクスピアは至るところで述べている。ヘンリー五世にしても、ただ勇ましいばかりではない。時によっては、自分の力を疑うこともあるし、また勝利に酔って、おごり高ぶる側面もみせる。フランスの王女を、力を背景にもてあそぶところなどは、人格を疑わせるほどだ。つまり人間とはそんなに単純なものではないのだ。

またヘンリー五世の正義そのものも、そう単純に描かれているわけではない。ヘンリー五世をたたえる言葉の傍らに、それを正面から否定するような言葉を、脇役たちによって吐かせている。

勝利のどさくさにまぎれて、捕虜にしたフランス貴族から多大の身代金をまきあげようとするものもいれば、フランス側には、イギリス人を私生児呼ばわりする言葉も吐かせている。

こうしたわけでこの作品は、単に正義の戦争とそれを勝利に導いた偉大な指導者をたたえるためだけのものではない。戦争を通じて、そこに垣間見える人間の弱さを、さらりと描いてもいるのだ。





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このページは、が2009年11月30日 21:04に書いたブログ記事です。

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