蔀戸と遣戸:扉の日本文化

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平安時代の寝殿造りの建物は、母屋と庇からなるがらんとした空間が広がるだけで、今日の建物のように内部が仕切られてはいなかった。(塗籠と称される、壁で仕切られた閉鎖的な空間があるにはあった。)そのかわり、御簾、屏風、几帳、衝立といった家具調度品を用いて、そのときそのときの目的に応じて、広い空間を仕切り一時的な部屋として使う、室礼というものが行われていた。

母屋を外界から分ける境界、つまり扉としては、蔀戸が用いられた。蔀度とは水平軸に回転する戸のことで、跳ね上げ式のシャッターのようなものと考えればよい。蔀戸には格子模様がはめ込まれていることが多かったので、格子戸とも呼ばれた。源氏物語には言及がないが、枕草子には、「ひとり念じ挙ぐる、いと重し」と出てくるので、格子戸の開け閉めは結構大変だったものと想像される。

平安時代にはまた、妻戸も用いられていたが、これは蔀戸が水平軸に回転するのを、垂直軸にしたものと考えればよい。洋式の扉に近いものである。

書院造になると、扉は遣戸が中心になる。引き違いの戸のことで、舞良戸とも呼ばれる。建物の外周部に取り付けたほか、家の内部で部屋を分ける襖にも用いられるようになった。

寝殿造りでは、建物の外周部に太くて丸い柱を規則正しく並べることが求められたが、書院造になると、柱の配置に自由度が生まれてきた。形状も丸柱から角柱へと変わり、建物内部の任意の点に立てて、部屋を区分けするのが簡単に行われるようになったわけである。

襖のほかに、木の枠に和紙を張った障子も広く用いられるようになった。これもやはり引戸が基本である。

蔀度と違って遣戸は開閉が容易で、女子供でも簡単に扱える。日本人は弥生時代から、扉には蔀戸を中心にしていたのだが、やっと近世になって、扱いやすい引戸を中心にするようになった。これはある意味で、居住文化の歴史の中での、ひとつの画期をなす出来事だったといってもよい。





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このページは、が2009年11月21日 18:46に書いたブログ記事です。

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