猿山の猿は人間社会の鑑

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猿山の猿といえば、プラスのイメージで語られることはない。集合体としては、絶えざる内紛と力による支配が蔓延し、常に不安定な状態にさらされている。また集合体を構成する個々の猿は、強いものにはへつらい、弱いものには居丈高に振舞う、また絶えず上昇することを願って、仲間同士足を引っ張り合う、こんなイメージが定着している。

人間の社会にも似た部分がある。結束が緩やかで規律に乏しい集団には、猿山と同じような行動様式が見られることがある。そのような集団では、個々の成員は互いにけん制しあって、少しでも集団内で安定した地位を占めようと、上に対してはへつらい、弱いものには尊大に振る舞い、絶えず競争相手を蹴落とそうと伺っている。集団に地位と報酬の資源が豊かにあればあるほど、こうした傾向は強くなる。大きな集団のトップになることは、猿山の大将に劣らぬ満足感をもたらしてくれるのだ。

だから人間の集団においては、多かれ少なかれ規律と序列を持ち込むことによって、猿山のようにならないよう配慮される。人間が猿と違うところは、ルールを重んじるということなのだ。

ところが人間の集団の中には、自分たちの弱さを反省して、猿に見習おうとする動きもあるのだそうだ。そのような集団では、通常の会社に見られるようなネットワーク形態をとったのでは、無能力なものばかりが重要な地位を占めて、集団全体が活性を失うと見ている。そこで役職や上下関係といったものをすべて廃止して、組織全体をフラットなものにしてしまう。一部の経営スタッフを除いては、みな平等にし、そのうえでやる気と能力のあるものに、特定の組織課題を遂行させる。

そうすると、本当にやる気があって、才気に溢れ、腕力の強い連中が組織を引っ張っていくことになる。猿山を見習ってこうするわけだから、当然猿山に特有の悪弊も表面化するだろうが、全体として悪弊を帳消しにするほどの活力が生じれば、それはそれでよいではないか、こんな考え方も出てきているのだそうだ。

人間はもともと猿なのだから、もっと猿らしく振舞うのも時には必要だ。とりわけ今日のように、社会が流動化して、新たなパラダイムが求められているときには、思い切って猿としての原点に返るのもよい、こういうわけだ。

こんな話を持ち出したのは他でもない。仲間と房州に遊んで、とある猿山を見物した際、猿の行動様式を見て、いたく感じさせられることがあったのだ。

意気軒昂と走り回る猿がいる一方、いじけて小さくなっている猿がいる。その中で一匹だけ別に、小さな檻に隔離されているものがあった。様子から見てどうも、他の猿から、いじめの対象にされていたらしい。そこで飼育員が心配して他の猿から引き離したというのが真相のように思えた。

我々の間では俄然、猿の習性が話題になった。その中で山子が、人間も猿に見習う余地があると言い出したのだった。なるほどいじめはよくないが、それは猿に強くて能力のある猿と、弱くていじめられる猿があることの表れだ。人間の目はとかくいじめられるほうに同情しがちだが、その結果腕力の強いものに十分な力を発揮させずにいる。やはり猿は猿の自然に任せるのがよく、人間もまた猿の一員として、もっと猿らしく振舞うのがよい、こんな理屈を述べ始めたのだった。

子のいうことには一理あるかもしれない。また子がいうような組織形態を採用して、実際に成功している企業もあるという。そこの社長は、猿山は人間社会の鑑だといっているそうだ。





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こんにちは♪
猿の習性を検索していて、このブログに辿り着きました。お猿さんの習性、もっと、詳しく知りたいです。それにしても、チンパンジーは猿を食べるとかという話を読んだことがあります。肉食、雑食ということでしょうか。フラットな組織形態、いいような気もしますが、自然淘汰やいろいろな言葉が思い浮かび、どちらにしても、ピラミッド型になるのでは?と思ったりもします。動物社会ですから、人間とは、また違うような気もします。類似したケースなどもあるでしょうが、人間と猿は、やはり、違うと思います。でも、子育てするお猿さんや、猿集団を率いるボスは、やっぱり、大変だと思います。子供の猿に、相手にされない親猿もいたり、母性愛を持って、一生懸命に接している親猿をテレビで観たこともあります。こういう部分は、動物のお猿さんも、人間も一緒なのかもしれません。でも、人間の場合、子供を虐待して、殺してしまう親もいたりします。自然界の中での猿と、経済社会を始めとした現代社会では、悲惨な事件も多いです。何か、類似性があるのでしょうか?動物の方が、純粋というか、神性溢れている場合もあるような気がしてみたり、不思議な気持ちです。お猿は、将来の設計をしたりしないのではないでしょうか?今に生きることは、とても大切なことで、そういう意味では、お猿に習うことも良いことだと思いますが、お猿と人間は、決定的に違うと思います。人間には、考える能力があり、思考があり、未来を築く能力があります。お猿は、椅子や机を作ったりしませんし、ロケットも作りません。猿山が、人間のある意味、鏡的な部分はあると思いますが、やはり、違うのでは?猿の惑星という映画を思い出しましたが、ぬるま湯に浸かっている猿のお風呂が、熱くなったら、猿は飛び出すことを知っていると思いますが、お猿の動物的な本能は、やはり、見習う部分があるのかもしれません。猿と人間は、決定的に違うけれども、やはり、類似している部分があるということでしょうか。お猿は、与えられた環境の中で生き、その中で、環境に合わせて、進化するのかどうかというところですが、環境破壊が進めば、お猿は、食べることもできなくなります。人間は、食べていくことが出来ても、お猿は、餌を与えられないと、生きていけなくなる場合もあります。大震災等が起きれば、人間も猿も、大変な目に遭うことも確かです。やはり、人間の数の方が、お猿より多いほうが良いと思います。地球の半分以上が、お猿だらけになってしまったら、やっぱり、不気味ですし、経済も成り立たないのでは?なんだか、徒然なるままに、コメントさせていただきましたが、応援して帰ります。もし良かったら、私のブログも、ご覧になられてみてください。それでは!

>思い切って猿としての原点に返るのもよい、

^O^ 面白い考えですね。 動物園に行って一日中眺めていても飽きないのがお猿です、あまりにも私達人間に似てるので。私の中にも猿の要素があり、好奇心の度合いは猫とか猿並みです。

「人間は裸の猿。」 と誰かが言ってましたが、確かにそうですね。

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このページは、が2009年12月 2日 19:16に書いたブログ記事です。

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