大田南畝と田沼時代

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大田南畝が処女作寝惚先生文集を世に問うた明和四年に、田沼意次は将軍家治の側用人になった。その後田沼は、明和六年に老中格、安永元年に老中に出世し、政治の実権を握るにいたる。田沼時代の始まりである。

田沼は安永、天明の時代を通じて老中をつとめ、天明の大飢饉による混乱とそれを背景にした松平定信の改革によって追放されるまで、日本の政治の舵取りをする。

田沼時代の評価については、いまだに定まらぬところが多い。とりわけ田沼意次という人物のネガティブな面がとり沙汰されて、この時代を客観的に評価する目を曇らせている側面もある。たしかに田沼は賄賂政治を横行させたり、金権万能の風潮を煽った面もあるが、全体としてみれば、田沼が舵取りをした時代は、活気のある世の中だったのである。

田沼の実施した政策は日本版重商主義とでもいえるようなものだ。彼の政策の眼目は国の富を増やすことだった。国の富を増やせば、幕府や各藩の財政もよくなるし、民衆の生活も楽になる。

徳川時代後半は、慢性的に財政危機が続いた時代だった。為政者はそのたびに倹約令をだして、国民に節約を呼びかけた。だが節約ばかりでは、国の富は増えない。したがって財政もよくなる見通しはない。富自体を増やそうとした田沼の試みは、ひが目に見ても、かなり大胆で、時代の流れに挑戦したものだったのだ。

富を増やすために、田沼は殖産興業に努めた。印旛沼や手賀沼を開拓して生産力を増そうとしたり、北海の海産物を加工してそれを輸出し、かわりに金銀を流入させる。そうすることによって、国内の貨幣の流通が促進され、経済が活性化する。いわば資本主義経済政策の原始的な形ともいえるものを、田沼は追及したのである。

田沼は貨幣流通の重要性をよく理解していたといえる。市場から貨幣の量が少なくなれば経済は沈滞し、金回りがよくなれば活性化する。そのことを知っていた田沼は、積極的に貨幣を鋳造して市場に出回らせた。実際田沼時代における貨幣の流通量は、前後の時代に比べ、格段に大きかったのである。

田沼時代は、町人の実力が強まり、多彩な町人文化が花開いた時代であった。その背景には、田沼によって推し進められた政策によって、町人たちの懐も豊かになっていた事情があった。

大田南畝が戯作者あるいは狂歌師として活躍した彼の人生前半の時期は、まさに田沼時代に重なっていた。南畝は田沼の没落と期を同じくして戯れの世界を去り、謹厳な小役人になってしまうのだ。

寝惚先生文集によって名を知られるようになった南畝は、洒落本や黄表紙に進出し、その傍ら狂歌で人気を博して次第に有名人になっていった。だが本職はしがない下級武士だ。武士としての俸禄ではまともな生活はできない。かといって洒落本等々からあがる収入もたかが知れている。そんな南畝でも、大尽なみの豪遊をするようになる。ひとつには土山宗次郎のようなパトロンがいたこともあるが、若い頃の南畝は実によく遊び歩いている。

町人仲間の景気のよさが南畝にもおこぼれとして作用していたと考えられる。町人たちはもうけた金で遊び歩き、狂歌を詠んだり、芸者を買ったりして人生を謳歌した。そのおおらかな気分が南畝の創作にも働いて、破天荒ともいえる「たわけの文学」を生み出させたのだともいえる。

たわけとは、平賀源内が寝惚先生文集に寄せた文章の中で使っていた言葉だ。源内においては、たわけの精神は、世の中を斜に見る態度を意味したが、南畝はこれを笑いの精神に解消させた。南畝にとって、世の中はまともに見るに耐えないものであり、パロディの中にこそ真実がある。

南畝は寝惚先生にしてすでに天性のパロディスト振りを発揮していたが、戯作においても、狂歌においても、パロディぶりをさらに徹底させる。パロディから生まれる笑い、これが南畝の創作の内実だ。

南畝のパロディにはとげがない。あるのは単純な笑いだけだ。

文学史上南畝を反骨の人と評価する向きもあるが、筆者などは、あまりうがった見方ではないと思っている。南畝にあるのは反骨精神というよりは、軟体思考なのではないか。彼には硬い骨は有用でない。軟体動物のような柔軟さが身上なのだ。

風刺は世の中をがっちりとうけとめた上でなければ発せられるものではない。南畝には、はじめから世の中をまともに受け止めるつもりはない。彼はそのまわりを軟体動物のようにくにゃりとすりぬけ、正面からではなく、斜め横のほうから、世の中を見る。そうすることで他の人には見えないものが見えてくる。それは普通の人にとっては思いがけない眺めであるので、接したものは関節をはずされたような気になる。そこから笑いが生まれるのだ

南畝のそんな笑いは、田沼時代という特殊な時代環境があったからこそ、花が開くことができた、そんな風に思えるのだ。南畝はある意味で、徳川時代の一時期に花開いた、民衆のはかない夢を体現した作家だったともいえるのではないか。


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