最近、小林多喜二の人気が高まっているという。代表作の「蟹工船」が若い人たちを中心によく読まれている。それだけではない、外国語に相次いで翻訳され、国際的な評価も高まっている。
蟹工船がよく売れるようになったのは、つい数年前のことだ。初めて発表されたのは昭和の初期、プロレタリア文学の代表作としての名声を得たが、戦後は忘れられたも同然となり、まともに読もうとする人は殆どいなかった。それが俄かに復活し、若い人たちや海外でも受け入れられるようになった。
この復活劇の背景にはどういう事情が働いているのか。筆者ならずとも、関心をそそられるところだろう。
「蟹工船」という小説は共産主義者としての多喜二が、資本主義社会の悪の側面をあぶりだそうとしたものだ。海のたこ部屋とも称すべき蟹工船を舞台に、労働者たちが過酷な待遇を受け、そこから階級意識に目覚めていくさまを描いている。
設定がショッキングで、内容は余りにも陰惨だ。だから決して読んで面白いものではない。なのに若い人々がこれを読んで感動するのは、小説の中身に自分の境遇を重ね合わせることができるからだろう。
いまの日本には、将来は無論、現在の境遇にも不満を感じている若者があふれかえっている。彼らは自分たちが社会によって抑圧されていると感じているのだ。その社会は多喜二が描き出した暴力的な抑圧装置としては現れては来ないが、しかし自分たちの未来を搾取しているという点では、多喜二の描いた社会と共通するものを持っている。
いまの若者たちが小林多喜二に共感するのは、こんな時代の背景があるからだろう、筆者はそんな風に感じている。
では海外での人気の背景には何があるのか。海外といっても欧米などの先進国と東アジアとでは事情が違うだろう。
欧米でも若者たちは一種の閉塞感にとらわれている、そこは日本と共通する部分がある。基本的な要因は経済の停滞だが、それが若者たちにしわ寄せされている。その結果現れる社会の軋轢現象は、階級間の対立というより、世代間の対立という形をとる。一種の階層意識に基づく対立だといえる。
一方中国以下の東アジアでは、著しい経済発展の影で、格差の拡大が激しさを増している。格差の拡大は国民を分断する方向へと向かう。この分断から一種の階層意識のようなものが育ってくる。
小林多喜二が俄然注目を集めるようになったのは、新たに生じつつある階層意識と一致するところがあるためであると、言えなくもない。だがこれだけでは、多喜二人気のすべてが説明されたことにはならないだろう。やはり彼の作品にそれなりの魅力がなければ、誰だって好んで読もうという気にはなれまい。
筆者は先に、多喜二の小説は読んで面白いものではないといった。なにしろ暗いのだ。こんな暗いものを読んでも、少しも楽しくないばかりか、精神衛生上もよろしくない。読んだあとには怒りや絶望といったマイナスな感情が残るだけだ。そのどこに魅力を感じ取ることができるだろう。
だが世の中には、怒りや絶望を糧にして生きている人々もいるらしい。そうした人たちにとっては、怒りは歩き続けることのバネとなり、絶望は休息の種ともなる。
21世紀は、前の世紀と比べてむき出しの不条理は影を潜めたといえるが、見えない不条理はむしろ勢いを増しているのではないか。その不条理がひとびとに怒りや絶望を植え付けているのではないか。そしてそこから、小林多喜二を好んで受け入れるような心の中の土壌を育てているのではないか、筆者などはそんな風に感じるのだ。
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