宮沢賢治の詩集「春と修羅」の末尾には、「風景とオルゴール」と題する一連の作品群が置かれている。賢治は作品の配列を作成日時の順に並べているから、これらの作品は、詩集の中で最も新しく作られたということになる。
屈折率を書いてから1年半ほどがたっているわけだが、その間に妹トシの死があり、またトシの魂の行方を求めて、オホーツクまで放浪している。その過程で賢治は、魂の不滅なあり方や、われわれ人間が住む世界のあり方についての、自分なりの観念を確立するにいたった。
「風の偏倚」と題するこの詩には、賢治の到達したひとつの宇宙認識のようなものが盛り込まれている。それは一言では言い表しきれないが、この世の出来事というものは、自分や自分の愛するものの存在を含めて、一回限りで消えてしまうものではなく、宇宙という大きな器のなかで永遠に保存され続けるのだとする考え方である。
キーワードは風だ。地上の現象と、それが消え去った後にもその記憶とも言うべきものを保存している未知の次元と、そのふたつの世界を結びつけるのが風なのだ。人は風の列車に乗ることで、異次元との境界を乗り越え、死んでしまった人の魂とも交流するようになれる。
風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜(あんこくさんりよう)や
(虚空は古めかしい月汞(げつこう)にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる
詩の最初のこの部分では、そんな風のイメージが語られる。風が吹き過ぎた後では、この世での出来事が巨大な過去となって、風とともに異次元へと移行するのだ。
五日の月はさらに小さく副生し
意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
月の尖端をかすめて過ぎれば
そのまん中の厚いところは黒いのです
(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)
ふたつ目のキーワードは月だ。雲はその月に寄り添う伴奏者のようなものだ。月は異次元を象徴するものとして、ここでは現れる。異次元は別に月でなければならない理由はない、だがここでは身近な対象として、異次元を象徴するものとして扱われている。
風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある。この言葉は黙示録の言葉のように聞こえる。嘆息とは人間という現象を象徴したものなのだろう。
きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と
星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲
(それはつめたい虹をあげ)
いま硅酸の雲の大部が行き過ぎようとするために
みちはなんべんもくらくなり
(月あかりがこんなにみちにふると
まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだが
いまはその小さな硫黄の粒も
風や酸素に溶かされてしまつた)
じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で
月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる
(山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)
どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく
ひるまのはげしくすさまじい雨が
微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ
月の彎曲の内側から
白いあやしい気体が噴かれ
そのために却つて一きれの雲がとかされて
(杉の列はみんな黒真珠の保護色)
そらそら B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと
苹果の未熟なハロウとが
あやしく天を覆ひだす
杉の列には山烏がいつぱいに潜(ひそ)み
ペガススのあたりに立つてゐた
いま雲は一せいに散兵をしき
極めて堅実にすすんで行く
以上賢治は月の見せる諸相にこだわって、それをひとつひとつ描写していく。あたかも月の表情の中に、異次元に生きている魂たちの表情をよみとろうとしているように思える。
おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
川尻断層のときから息を殺してしまつてゐて
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる
空気の透明度は水よりも強く
松倉山から生えた木は
敬虔に天に祈つてゐる
辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ
(どうしてどうして松倉山の木は
ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
あのごとごといふのがみんなそれだ)
月が過ぎ去った時間としての過去の集積の象徴だとしたら、松倉山は過ぎ去った時間が生きていた空間の象徴である。その松倉山に生えた木が、天に向かって祈っている。この祈りの中で、過ぎ去った時間と空間とが出会うのだ。
呼吸のやうに月光はまた明るくなり
雲の遷色とダムを超える水の音
わたしの帽子の静寂と風の塊
いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび
レールとみちの粘土の可塑性
月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる
巨大な過去の時空と一体化した賢治には、魂のエクスタシーが訪れる。賢治はこのエクスタシーのなかで、自分が宇宙の中での孤立した存在ではないことを確信する。
関連サイト: 宮沢賢治:作品の魅力を読み解く
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