サバティエ夫人とマリー・ドーブラン:ボードレールの女性遍歴

| コメント(0) | トラックバック(0)

「悪の華」諸篇の中で、ジャンヌ・デュヴァルと並んでボードレールの詩想を掻き立てた女性が二人いる。サバティエ夫人とマリー・ドーブランだ。サバティエ夫人からは「あまりに快活な婦人へ」や「霊的な夜明け」が生まれ、マリー・ドーブランからは「旅への誘い」や「秋の歌」が生まれた。

二人ともジャンヌとはいささか異なった人種の女だった。ジャンヌの粗野に対しては優雅さを、ジャンヌの蒙昧に対しては知性を感じさせた。しかも透き通るような肌をしたフランス風の美女だった。つまりジャンヌとは似てもつかず、どちらかというと自分の母親に近かったのだ。

だからというわけだろう。ボードレールのこの二人の婦人に対する接し方には、非常に曲がりくねった感情が伴っていた。やり方を間違えると彼は、近親相姦のような罪悪感に陥る恐れがあったのだ。

サバティエ夫人は一種の高級娼婦ともいうべき女だった。私生児として生まれた彼女は生来利発で美しく、若いときから大勢の男たちに愛された。最初はリチャード・ウォレスという大金持ちの愛人となり、ついで彫刻家クレザンジェ、そして鉱山王アルフレッド・モッセルマンの愛人となった。

彼女はモッセルマンの扶養を受けて立派なアパートに住み、そこを舞台にして高名な文学者たちを招き寄せ、一流サロンの女主人になった。出入りした人物には、テオフィル・ゴーティエ、ギュスターヴ・フローベール、マクシム・デュ・カン、ゴンクール兄弟といった錚々たる人々がいた。ゴーティエはサバティエ夫人を「女議長」と呼んで、ひっきりなしに彼女のサロンを訪ねた。

また彼女はみんなからアポロニーと呼ばれていた。その名に恥じず彼女は完璧なプロポーションをしていた。モッセルマンはその美しさがはかなく消えていくことを惜しみ、その姿を大理石の像に刻ませたのである。

初めてサバティエ夫人と出会ったとき、ボードレールはたちまち彼女の美しさにうっとりとした。しかしボードレールはすぐにあからさまな行動に及ぶことをためらった。そのかわり匿名の手紙に添えて、彼女の美しさを歌った詩を次々と贈りつけた。

恋文まがいの手紙を受け取ったサバティエ夫人は、この手の手紙には無論慣れっこだった。だがこの手紙を書いた男は、それ以上自分に近づいて来る様子がない、そこが他の男とは違うくらいだった。

そんなところから、この恋愛はボードレールによる一方的な片思いに終わったようだ。だがボードレールはその片思いを無駄には終わらせなかった。その思いの中から「悪の華」を飾るさまざまな詩想を引き出したのだった。

マリー・ドーブランとの間では、ボードレールは一歩踏み込んだ態度をとった。ボードレールと出会った時、マリー・ドーブランはテオドル・ド・バンヴィルの愛人だった。バンヴィルはボードレールより二つも年下にかかわらず、若くして文壇に名を知られる存在だった。そんなバンヴィルをボードレールは若いときから嫉妬していた。なぜ俺ではなくて奴がちやほやされるのだと。

そこでボードレールはバンヴィルから愛人を奪い取ることで、長年の競争心を満足させようとしたのかもしれない。猛然とマリーに近づき、一時は彼女の愛を獲得したように思われる。ボードレールは一文無しの状態で彼女を喜ばせるために、頻繁に母親に金の無心をしている。

マリーは女優だった。パリのシテ座を舞台に大衆の拍手喝さいを浴びていた。彼女はそのうえ見栄っ張りでもあったようだ。自分の名声を更に高めるために、当時人気作家だったジョルジュ・サンドの作品を舞台に載せ、自らその主演女優を勤めたいと願った。

マリーから相談を持ちかけられたボードレールは、ジョルジュ・サンドが犬より嫌いだったが、ほかならぬ愛する人の願いだからと、膝を屈してジョルジュ・サンドに取り入った。

ボードレールがなぜジョルジュ・サンドを毛嫌いしたか、その理由はよくわからない。だが彼は後に「赤裸の心」の中で、サンドを次のように罵倒しているのだ。

「彼女は愚かで、鈍重でおしゃべりだ。彼女の道徳観念は、門番女か囲われ者の女と同じくらいの判断の浅さと感情的な図太さしか備えていない、、、わたしはぞっとするような思いに身震いせずには、この愚かな女性のことを思うことが出来ない。」(沓掛・中島訳)

こんなに嫌っているわけだから、ボードレールに機嫌を伺われることになったサンドのほうも、反射的に反発を感じたのだろう。サンドはついにボードレールの願いを聞き入れることはなかった。またマリーのほうも無力なボードレールに愛想を尽かし急に冷たくなったばかりか、ついには以前の恋人バンヴィルの胸の中に戻ってしまったのである。こうして半ばは意趣返しを含んだボードレールの恋のアドヴェンチャーはあっけなく終わった。

サバティエ夫人との間では後日談がある。「悪の華」の刊行をめぐってボードレールは官憲の訴追を受けることとなるのだが、自分の陥った窮状を助けてもらおうと、サバティエ夫人に援助を求めたのだ。夫人は文学界のみならず、政治の世界にも一定の影響力をもっていた。かつてフローベールが、自分の陥った窮状を皇后の力添いで助けてもらったように、ボードレールも政治的に影響力のある婦人の力を借りて窮状を脱しようと図ったわけである。

そこでボードレールは刊行したばかりの「悪の華」をサバティエ夫人に送りつけ、これまで匿名の手紙の中で夫人をたたえ続けていた男が自分であったことを明かした上で、その援助を求めた。夫人のほうは、自分がミューズであるといってくれるこの青年がにわかに可愛くなり、なんとか助けてやろうと、方々に働きかけたのだった。

だが夫人の献身的な助力にかかわらず、ボードレールは有罪の判決を受けた。払いきれないほどの罰金を科されたのだ。そんなボードレールを夫人は慰めてやろうと思ったのか、ボードレールにとっても思いがけないような大胆な行為に及んだ。つまりボードレールと一晩をともにし、その傷ついた心を慰めてさしあげるといってよこしたのだ。

ボードレールはどうしたものかと迷ったが、このまま断っては礼儀を失することになろうと思い、婦人の申し出に従った。

だが改めて夫人の裸体を見ると、ぶくぶくとふくれているような肥満体だ。容色もだいぶ衰えてきている。そんな夫人をボードレールはいやいやながら抱いたのだったが、もうそれっきりにしたいと思った。だが夫人のほうはそれではすまなかった。ボードレールに強い愛着を示したのだ。

いったいどういうことなのかね、かつてはたしかに美の権化としてあがめたこともある女だが、いまではただの肉の塊だ。それが発情したメス犬のように自分にまとわりついてくる。女というものは男のほうから求めるからこそ価値があるのであって、自分から男を求めてはいけない。そんな女は娼婦となんら変るところがないではないか、ボードレールはこのように感じ、彼女の側からの恋の誘いにはそれっきり乗らないことにしたのだった。


関連サイト:ボードレール Charles Baudelaire





≪ ジャンヌ・デュヴァル Jeanne Duval :ボードレールと女 | ボードレール | ボードレールの女性蔑視 ≫

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/2186

コメントする



アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

この記事について

このページは、が2010年3月24日 20:17に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「鐵堂峽:杜甫を読む」です。

次のブログ記事は「中村不折の書「龍眠帖」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。