ボードレールの美術批評

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ボードレールの文業が美術批評から始まったというのは興味深いことだ。彼は大学の法学部に在籍しながら法学の勉強はしようとせず、漠然と物書きになりたいと思って文学作品を読んでいたようだが、そのうち美術のほうにも関心を示すようになった。エミール・ドロアという今日では無名の画家と知り合い、絵の手ほどきを受けたことなどがきっかけになったようだ。

ボードレールは例の浪費癖を発揮して、アロンデルという老獪な画商からプーサン、ティントレット、ヴェラスケス、コレッジオなどの絵を買い求め、自分のアパルトマンを小さな美術館のようにした。おそらく騙されて複製を買わされたのだと思われるが、こんなことをしながら次第に自分なりの美術眼を持つようになった。

彼は自分の鑑識眼を発揮するいい機会だと思って、1845年のサロンを取材し、そこから一冊の美術批評を出版しようと決意した。ドロアのほかに「劇場新聞」のために批評を書くよう依頼されていたジャック・アスリノーが加わり、サロンに出品された作品を一つ一つ見て歩き、それぞれについて論評を加えたのである。

数ある出品策の中で彼が最も評価したのはドラクロアだった。ドラクロアはボードレールより20歳以上も年上で、すでに1820年代から創作活動をしていたが、ボードレールは改めてこの画家を現代最高の画家と称えたのだった。その理由をボードレールは斬新な色彩感覚に求めた。

「色彩によって肉付けを施すこと、これは出たとこ勝負の、自発的な、込み入った仕事のうちに、まず光と影との論理を見出し、次に色調の正しさと調和を見出すことである。言葉を変えれば、それは、たとえば影が緑で光線のひとつが赤なら、一挙に、単色でありながら別の色調に転じかけている一つの物体のような効果をもたらす、ひとつは暗くもうひとつは光り輝く緑と赤との調和を見出すことになるのだ。」(豊崎光一訳)

ボードレールが次に賞賛したのはコローの絵であった。

「コロー氏の力量を証するものは、それが技法上だけのことだとしてもだが、彼が変化の少ない色調の諧調を用いても色彩家たる術を知っているということであり、また彼が相当に生で派手な色を用いるときでさえつねに諧調家であるということだ。」(豊崎訳)

ボードレールの美術批評の眼目が、デッサンのたしかさを重んじる伝統的な観点を超えて、形より色彩の調和を重視することにあるのは、明らかだろう。それはまた印象派を経験した現代美術の支配的な見方でもある。だからボードレールの美術批評はある意味で時代を先取りした面があるといえるのだが、それが早くも最初の仕事の中で発揮されていたわけである。

ボードレールはこの美術批評を小冊子にして刊行したが、殆ど売れなかった。だがボードレールはそれでよいとした。自分で改めて読み返してみても、凡庸過ぎると感じたのだ。

この年ボードレールは自殺騒ぎを起こしたりしているのだが、年が明けるともう一度本格的な美術批評を手がける。「1846年のサロン」である。この中でボードレールは先に提出した美術上のテーマ、色彩の重視とその体現としてのロマン主義について熱っぽく語った。

「ロマン主義は、まさに主題の選択の中にあるのでもなければ、正確な真理の中にあるのでもない。それは感じ方の中にある。
かれらはロマン主義を外部に捜し求めたが、ただ内面にのみそれを見つけうる可能性があったのだ。
ロマン主義は、私にとっては、美の最も美しい、最も現代的な表現である。
ロマン主義を語ることは、現代美術を語ることである。
色彩の中には和声、旋律、対位法が見出される。」(本城格、山村嘉巳訳)

ここでボードレールがいう外部とは、形のことであり、様式のことである。ボードレールはそんな外面的なものではなく、内面的な美こそ重要だと主張する。そしてそんな新しい美術を最もよく体現した作家として、ドラクロアを改めて持ち上げるのだ。

「ロマン主義と色彩は、私をまっすぐにウージェーヌ・ドラクロワへと導いていく。彼がロマン派という肩書を得意に思っているかどうか私は知らない。だが、彼の座席はここにある。なぜなら、大部分の観衆は、ずいぶん前から、いや既に彼の処女作以来、彼を現代派の首領と認めてきたからである。」(本城、山崎訳)

ボードレールのドラクロア礼賛はこれ以降一貫していた。わざわざドラクロアのために「生涯と作品」を紹介する文まで書いている。だが生涯を通じて自分を礼賛したこの奇妙な批評家を、ドラクロアのほうではなぜか、敬遠し続けた。ボードレールという人間にはどこか異常なところがあるから、ほめてくれるのはありがたいが、付き合う気にはなれなかったということだろう。

ボードレールによる評価に応えて、自分からもボードレールに近づいたのはエドゥアール・マネである。

ボードレールがマネと知り合うようになったいきさつはよくわからない。マネは1859年のサロンに「アブサンを飲む男」を初出品したが落選した。たまたまこのサロンの批評を「1859年のサロン」に書いたボードレールは、なぜかこの絵のことには触れていない。ボードレールは別の経路でマネと知り合ったものと思われる。

マネはボードレールが好きになったらしく、1861年にはかつてのボードレールの愛人ジャンヌ・デュヴァルの肖像画を描いているほどだ。そのマネにたいしては、ボードレールはドラクロアやクールベに対するほどの敬意を表してはいない。彼がマネの価値に論及したのは、1862年に発表した「画家と銅版画家」という詳論の中だけであった。その中でボードレールはマネについて次のように書いている。

「つい最近もまた、まだ若い二人の画家が、まれにみる勢いをもって出現した。
私はルグロ氏とマネ氏のことを語りたいのである。
マネ氏はこの前のサロンで盛んな反響を呼んだ"ギター弾き"の作者である。次のサロンでは、最も強烈なスペイン風の味わいを帯びた彼の絵が何点もみられるだろうが、これには、スペイン精神がフランスに逃げ込んだのでないかと思わせるものがある。」

こんな調子で論旨は上滑りしているのだが、それでもマネは自分に対する好意にあふれた論評と受け止めたようなのだ。


関連サイト:ボードレール Charles Baudelaire





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このページは、が2010年4月 8日 20:13に書いたブログ記事です。

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