ボードレールとエドガー・ポー

| コメント(0) | トラックバック(0)

ボードレールのエドガー・ポーとの出会いはまさに運命的なものだったといえる。それ以降ボードレールは魅せられたようにポーの世界を追い求め、それらをフランス語に翻訳したばかりか、自身の作品にもポーの精神をふんだんに盛り込んだ。ボードレールはある意味でポーとは文学上の兄弟とも言える。無論ボードレールのほうが弟分だ。

ボードレールが始めてエドガー・ポーの著作の断片に接したのは1846年のことだった。その中には「大鴉」のフランス語訳も含まれていた。たちまちポーの魅力のとりことなったボードレールは、パリでアメリカ人と出会うたびに、ポーについて質問攻めし、この奇妙な作家のことを何もかも知りたいと思うようになった。だがポーを知るものはほとんどおらず、たまに知っているものがあるかといえば、ポーについて芳しからぬ噂話ばかり返してくるのだった。

ポーが1849年に死ぬと、その意思に従って、グリズウォルドが全集を出版した。ボードレールは比較的早くこの全集を手に入れたものらしい。というのもボードレールは1852年の「文学評論」に「エドガー・ポー、その生涯と作品」を掲載するのだが、それはこの全集を編纂したグリズウォルドによるポーの伝記を下敷きにしているからだ。

グリズウォルドのポー伝は悪意に満ち、ポーの生涯を正確に描き出していないとの評価が今日ではもっぱらである。第一ポーの生まれた日付からしてでたらめであるし、ポーの文学史上の意義などというものをまったく考慮に入れていない。だから今日グリズウォルドに敬意を表する研究者は世界中ひとりもいない有様である。

だがボードレールにとっては、グリズウォルドからの情報が唯一の手がかりであった。したがってボードレールによるポーの生涯の紹介は誤謬だらけといってよい。

それでもポーの文学史上の偉大さを見抜くことについては、ボードレールは間違ってはいなかった。それのみかボードレールはポーのうちに、あまりにも自分と似ているものを発見したのだ。ポーを語るボードレールの文章は、あたかも自分自身を語っているように聞こえる。

「エドガー・ポーに関して世間が等しく認める二三の点がある。たとえばもって生まれた高い品位、雄弁、美貌であり、人のいうところによれば、これらの点では彼もいささか自慢だったらしい。彼の態度は、高飛車な調子と品のいいやさしさとが奇妙に入り混じっており、確信に満ちていた。顔立ち、身のこなし、仕草、頭のもたげ方、こういったものがすべて、とりわけ好調の時代には、彼が選ばれた存在であることを示していた。」(平井啓之訳、以下同じ)

ボードレールはこんな風に、ポーを神の似姿として描き出す。そのポーが社会との関係では、

「このように事実孤独であり、ひどく不幸であり、社会の全組織をパラドックスとぺてんと見てしばしばそれと真っ向から対決しえた男、情け容赦のない運命によってさいなまれて、社会とは惨めな奴らの群れつどう市にすぎないと語った男」

と評しているが、それはとりもなおさずボードレール自身のことでもあった。自分に余りにも似ているのに感激して、ボードレールはこういうのだ。

「エドガー・ポーの生涯はなんと痛ましい悲劇であることか!私が読みえたすべての文献から、私には、合衆国が畢竟大きな牢屋に過ぎなかったのであり、彼はそれを、もっと香しい世界に生きるようつくられた生き物の熱に浮かされたような焦燥をもって、はせめぐったのである、という確信が生まれた。」

ボードレール自身も、フランスが自分にとっては牢屋のようなものだと感じていた。フランスに限らず、彼が生きていた世界全体が、いとわしい仮の世のように映っていたのである。

1852年以降のボードレールには、ふたつの目標が出来た。ひとつは「悪の華」に結晶する詩の数々を書き上げることであり、もうひとつはポーの作品をフランス語に翻訳して紹介することだった。彼はこの課題を忠実に守り続け、ポーの翻訳については、1856年の「異常な物語集」を手始めに次々と発表していった。

今日ポーが世界文学史に確固たる地位を占めているのは、ボードレールに負うところが多い。ポーはフランスで熱狂的に受け入れられた後、出身地たるアメリカはもとより、世界中に伝播していったからだ。


関連サイト:ボードレール Charles Baudelaire





≪ ボードレールの美術批評 | ボードレール | ボードレールのマルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール論 ≫

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/2231

コメントする



アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

この記事について

このページは、が2010年4月15日 19:10に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「堂成:杜甫を読む」です。

次のブログ記事は「チロリン村とくるみの木」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。