北信への小さな旅(その二):松代と佐久間象山

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松代と聞いて最初に思い浮かんだのは、終戦末期に突貫工事で作られたという大本営のことくらいで、ほかのことはほとんど何も思い浮かばなかったが、実際にたずねて見ると、大本営は別にして、町本体にも魅力があることがわかった。

この町は真田家10万石の城下町である。城下町の多くはいまでは寂れてしまい、まして城下町としての風情を残しているところなど殆ど見られないなかで、この町はそのいくばくかの遺風を伝える貴重な空間を残していたのである。

遺風の代表格は、町のところどころに残る中級武士の屋敷跡だ。100-150石の中級武士の屋敷が当時そのままに、あるいは復元されて公開されているが、それらがなかなか立派なのだ。

たとえば横田家住宅と称するものは、150石取りの中級武士の住宅ということになっていたが、これがなんと1000坪を越える広大な敷地を擁し、その中に約48坪の母屋、18坪の隠居屋、18坪の長屋門と大小ふたつの土蔵を配していたほか、山水を配した庭園まで抱えていた。

現代人の感覚からすれば豪邸といってよい。松代では中級武士でもこれくらいの屋敷が構えられるほど、土地が豊かだったのだろうか、筆者などはふとそんな疑問を持った。

というのも、筆者の旧里である下総の佐倉も堀田11万石の城下町であったのだが、佐倉藩においては、中級はいわず上級武士にあっても、こんな広壮な屋敷を構えるものはなかったのではないか。

佐倉藩の場合は、天保年間に大規模な藩政改革を行い、その中で武士の住居の基準を定めたことがわかっている。母屋の規模についていえば1000石以上の家老職の家で81-261坪、300石以上の大屋敷で39-63m坪、100石以上の中屋敷で27-33坪、それ以外の小屋敷は概ね24坪内外、というもので、このなかで長屋門を設けることのできるものは大屋敷以上だけだった。

こんな比較考証をしながら散策をしていると、ある老人から呼び止められた。よかったらお茶を飲んでいきませんかという。その親切ぶりが自然に受け取られたので、四人そろって老人の後についていくと、ある建物の中に導き入れられた。

佐久間象山の像がいくつか壁にかかっているのが見える。どうも佐久間象山を記念するところらしい。そうか松代といえば、佐久間象山の出身地でもあった、筆者は始めてそのことに思い当たった。

案内されるままにテーブルに着くと、先の老人とは別の老人が我々にお茶を入れてくれる。先程来の老人はその間にも、松代の藩の歴史と佐久間象山のことを語ってやまない。どうやらこの老人たちはボランティアとして、象山にゆかりのあることを観光客に語り伝えるのが目的らしい。

佐久間象山といえば、一昔前までは幕末の奇人として子どもでも知っているほどの有名人だったが、最近はすっかり影が薄くなってしまった。いま放映中の「竜馬伝」にも、象山先生の名は噂の陰にも出てこない。この老人たちにはそんな世の移り変わりに見られる薄情振りが残念でならぬらしい。象山先生の偉大さをもう一度世の中のひとに広く知ってもらいたい、そんな情熱が伝わってくるのだった。

ところで佐久間象山とは何者か、改めてこんな問いを発せられても、多くのものは答えに窮することだろう。象山先生自身は幕末の発明家の一人として、いくつかの発明もしているようだが、ユニークさという点では一時代前の源内先生には及ばない。

そこで思想上の働きはどうかということになるが、先生が思想上深刻な影響を世の中に広めたということもない。先生の思想の要点は、攘夷主義者の田舎根性の狭苦しさを笑い飛ばすことにあったが、そのことで攘夷派の怒りを買って殺されてしまった。それは思想信条に殉じたというより、口げんかの末に殴り殺されたというに近い。

老人たちはそんな象山先生を、郷土のかけがいの無い先達として心から敬愛しているのであろう。先生の利点は言うに及ばず、その弱点まで包み無く話し尽くしたうえで、その中からおのずから浮かび上がる象山先生の全体像ともいうべきものが、ひとりひとりの聞き手たちの心の中に生まれてくることを期待しているようなのだ。

そこで筆者は、自分にも象山先生の面影の一端が浮かび上がってくるのが感じられるように思いますと、老人に向かっていった。ところでその象山先生の肖像ですが、どれを見ても耳がついていませんねと、部屋の壁にかけられている先生の肖像画を指しながら訪ねてみた。普通なら耳がついていてしかるべき部分に、耳がついていないものだから、象山先生の肖像画はどれも、浮世離れして見えるのである。すると老人はこういったのだった。

象山先生は生前から人の話を聞かないことで有名でした。象山先生と対面したことのある人は、先生にはそもそも耳がついてなかった、だから人の話を聞くこと自体できなかったのだろうといっています。こんなわけで先生の肖像画には必ず耳はついていないのです。

(写真は象山神社。死後神と祭られるもうはそう多くはいない。)





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このページは、が2010年6月13日 17:20に書いたブログ記事です。

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