大逆事件百年:山本進・田中信尚両氏の対談

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今年(2011)は大逆事件の首謀者とされた幸徳秋水が処刑されてから100年目の節目の年だ。長らくこの問題にかかわってきた「大逆事件を明らかにする会」事務局長山泉進さんと「大逆事件」の著作で知られるノンフィクション作家田中信尚さんが、月刊誌「世界」に対談を載せているのを興味深く読んだ。

山泉さんが大逆事件にかかわるきっかけになったのは、幸徳秋水と同じ高知県中村市の出身だったという事情からだという。その中村市の市議会が、2000年に秋水の名誉回復決議を全会一致で採択した。長年秋水の無罪確認と名誉回復を訴えてきた氏にとっては、画期的なことだった。

もっとも中村市がこんな決議をした背景には、不況にあえぐなかで、観光の目玉になるものなら何でも利用したいという、バブル崩壊後の地方の窮状が働いていたらしいという、笑えない事情もあったようだ。

田中さんのほうは、大逆事件が日本の近代史の上で持つ圧倒的な意義にかかわらず、意外と人々に知られていないことにショックを受けたことが、この問題を改めて世間に訴えようとする原動力になったと話している。

大逆事件は、既に遥か過去の問題のように受け取られているが、まだ歴史なんかではなく、今もって生きている問題なのだと田中さんはいう。

この事件は、明治国家が帝国主義化していく過程で起こった、ある意味で必然的な事件だった。当時の明治政府は、外には植民地支配、内には思想弾圧を強めていたが、そうした国家の意思に反逆する勢力を撲滅するために、国家が仕組んだフレームアップが大逆事件だった、というのが二人の共通した認識だ。

だからこれは誤判によって冤罪を着せられ死刑になったというような生易しいものではない。それは裁判という形式を借りて、国家にとって好ましからざる人間を抹殺した政治的な事件であった。そのあまりの残酷さに、国民は恐怖した、それ以降国民は、表だって国家を批判することをしなくなった。

この事件の本質を見抜き、しかも勇気をもって批判した人物など殆どいなかった中で、石川啄木はそれを歌にして詠んだ。啄木はまた、韓国併合をも歌にしているから、当時の日本人の中では、抜きんでたジャーナリスト感覚を持っていた、こう二人はいう。

幸徳秋水は官憲の罠にはまって殺されてしまったが、彼が官憲の憎しみを買ったのにはそれなりの理由もあった。天皇制をめぐる発言である。

当時はなぜか南朝正統論が支配的であった。秋水はその論理の中に不純な動機を認め、今日の天皇が北朝の子孫であることを、ことさらに言いたてた。これは誰もが反駁できない歴史上の事実であったが、当時の国粋主義者たちは、この問題に触れられるのを極端に嫌がっていた。彼らにとって秋水は、そのタブーを公然化させた憎い輩だったのだ。

日本の近代史の中では、幸徳秋水のような人物は例外的な存在に近いといってよい。だが彼の生き方は、国籍を超えて人々の尊敬を集めるに値するものだ。こんな人物を生んだことを、日本国民はもう少し誇りに思ってもよい。





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