白石良夫著「最後の江戸留守居役」を読む

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白石良夫著「最後の江戸留守居役」(ちくま新書)は、依田学海の日記「学海日録」から、学海が佐倉藩の江戸留守居役として過ごした慶応三年から明治二年にかけての、二年間にわたる記事を取り上げ、それを丹念に読み解くことを通じて、薩長はじめ勝者の側ではなく、敗者の側から見た明治維新の歴史的な意義について、考察しなおしたものである。

依田学海は幕末から明治初期にかけての漢学者あるいは演劇改良家として、一部の人々に知られていたが、平成の初年に、安政年間から明治三十年代まで四五年間にわたって記録した膨大な日記が、「学海日録」全十二巻の形で、岩波書店から刊行されたことを契機に、日本近代史の理解にとって欠かせない資料として、俄然注目を浴びるようになった。

この本の著者白石良夫氏は、「学海日録」の編集者二十四人の一人として、刊行に寄与した人である。日記原本は小さな字でびっしりと書き込まれ、宛字や遊びなどがあってすこぶる判読困難であったそうだが、学者仲間の支え合いを通じて、ついにこの膨大な資料を活字に移すことに成功した。

あとがきの中で氏が述べておられるように、「学海日録」の刊行は、幸運な偶然によってもたらされた。九州大学名誉教授今井源衛氏がソウルの韓国外国語大学客員教授として滞韓していた際、折を見て国立中央図書館などに現存する日本文学関係の資料を探索しているうち、「墨水別墅雑録」と題した五冊揃いの日記を発見した。

この日記を読んだ今井氏は、そのなかに明治維新前後の日本の歴史にかかわった数多くの著名人が出て来るのに驚き、またこれが読み物としても非常に面白いことに感心し、ぜひ活字化したいとの思いにとらわれ、全ページを写真に記録したうえ、帰国後これを出版したのだった。

これは学海が墨堤に持っていた別荘で書かれた日記で、中には瑞香という名の女性が出てくる。この女性こそ学海が佐倉から呼び寄せた妾であり、別荘は妾を囲うための空間であったわけだ。

この妾宅日記とは別に、学海には本宅で書いた膨大な日記があることが、専門家の間では古くから知られていた。その日記は幕末から明治維新を経て、明治の近代国家建設へと邁進する時期にあって、薩長中心の勝者側の視点からではなく、幕府の立場に立った敗者側の視点から書かれていることが特徴であった。したがって日本近代史を複眼的視点から解釈するに当たって、重要なよりどころとなるような情報も多く含まれていると思われた。

そんなことから、妾宅日記が刊行されたことをきっかけに、この本宅日記の方も刊行しようとする機運が一気に盛り上がった。今井氏の意思をもとに、白石氏も加わった刊行委員会が直ちに結成され、ついに四六判平均四〇〇ページ、本文十一巻からなる日記が、こうして刊行された。

この本の中で白石氏が取り上げたのは、上述したように、慶応3年の初めから明治2年末頃までの2年余りの期間である。その期間、依田学海は佐倉藩の江戸留守居役として、藩政に深くかかわるとともに、藩の外交係として、幕末から明治維新にわたっての日本の政治の動きに巻き込まれていくことになる。その激動する状況を、学海は単に即物的に記録するのみならず、文学的な情熱を込めて描きあげたわけなのである。

江戸留守居役とは、藩主が国元にいる間、江戸にあって藩主の代理を務める職制をいう。いわば藩の特命全権大使のようなもので、対幕府、体他藩との関係において、藩の意思を帯びる役柄である。名称は藩によってまちまちで、佐倉藩では聞役と称していたが、仕事の中身は同様である。

この留守居役というのは、平和な時代にあっては、のんびりとした毎日を気楽に過ごせるのんきな仕事でありえたらしい。実際学海の記述によれば、各藩の留守居役は藩の格式に応じて様々な連絡網を設けていたが、それらは情報収集という表向きの役目と並んで、留守居役相互の親睦を図るという名目で、毎日のように宴会騒ぎに呆けていたらしい。もちろん費用は藩持ちであるから、社用族の走りともいえる。

だが学海が留守居役を命じられていた期間は、明治維新前後という激動の時代に当たっていた。明治維新を契機にして日本は近代国家に生まれ変わり、当然のことながら幕府と各藩からなる封建門閥の制度は瓦解する。学海の務めた江戸留守居役の制度も、学海らを最後の担い手として歴史から消える運命にあった。白石氏がこの本の題名を「最後の江戸留守居役」としたのは、そういう事情を踏まえてのことである。

白石氏はこの本を著述するにあたって、いくつかのモチーフをえらんでいる。一つは、留守居相互の人間関係の在り方や、依田学海をめぐる人的なネットワークへの関心である。川田甕江、西村茂樹、加藤弘之をはじめとした幕末維新期の知識人たちと学海との交流が、生き生きと描き出されているのは、読み物として面白いところだ。

二つ目は、学海という人物のなかに凝縮された、幕末期の知識人の世界観というか、世の中の動きを解釈する視点の面白さだ。学海自身は譜代藩の外交係として、封建制度に根差した徳川中心の見方からなかなか脱却できないでいた。その狭い見方が自分自身や主君堀田氏の危機を呼び寄せるような危なさにもつながったが、しかしその見方を絶対的なものとして、最後まで押し通したわけでもない。極めて日和見的なのだ。そこが佐幕を最後まで貫いて滅亡した会津などとは異なる。

面白いことに、徳川慶喜が大政奉還をして、権力が幕府から薩長を中心にした宮廷へと決定的に移行したにもかかわらず、学海はそれを正確に認識することができないでいた。戊辰戦争の勃発に際しても、学海は薩長中心の軍を賊徒と呼び、徳川に忠誠をつくすものを官軍と呼ぶ。薩長を憎む気持ちは、「長薩の狗」とまで言わせているほどだ。

ところが戦況が進んで旧幕府側が圧倒的に不利になると、学海はいつの間にか佐幕側を賊と呼び、薩長側を官軍と呼ぶようになる。この意識の転換が、いつ、どのような事情でもたらされたのか、読者は明確な手掛かりがえられない。

こういうわけで、依田学海という人物の証言なり行動は、明治維新という歴史的大事件を読み解くにあたっての、ヒントのようなものをたくさん与えてくれる。この書物がカバーしているのは、明治維新を囲んでわずか2年間の短い間だが、日記全巻を読破することを通じて、読者は明治維新についての複眼的な思考の枠組みを得られることだろうと思う。(なお、新潮文庫から発行された「幕末インテリジェンス」は、この本の復刻版である)






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このページは、が2011年4月 8日 18:59に書いたブログ記事です。

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