今は昔、三河の国のある郡司が妻を二人持ち、それぞれに養蚕をさせていた。ところがどうしたことか、本妻のほうの蚕が皆死んで、ものにならなかったため、夫は気味悪がって近づかなくなり、従者たちも近づかなかった。それゆえ家は貧しくなり、妻はただ二人の従者とともに、心細く暮らしていた。
蚕が死んだ後、新しく飼うこともなかったが、一匹だけ残ったやつが、桑の葉に食らいついていた。これを見つけて養っているうち、蚕も大きくなり、桑の葉を投げ与えると、あっという間に食ってしまう。こんなわけで面白く思って養い続けた。「これを養ったからといって、どうなるわけでもあるまい」とは思ったが、ここの三四年の間は養蚕をやめていたこともあり、そのさまが面白くて、引き続き養い続けた。
この家には一匹の白い犬がいて、尻尾を振るなど愛嬌ものであったが、あるとき、蚕が蓋の中で桑を食っているところ、走り寄って、それを食ってしまった。妻はびっくりして、残念に思ったが、まさか蚕を食ったことを理由に犬を殺すわけにもいかぬ。
犬は蚕を食うと、妻の前に座った。妻は「蚕一匹養えないのは宿世だろう」と、哀れに悲しくて、犬に向かって泣いた。すると犬は、くしゃみをし、そのついでに、鼻の穴から二筋の白い糸を吐き出したのだった。
不思議に思ってその糸を引っ張ると、二筋になって次から次へと長く出てきた。それを枠に巻きつけると、すぐにいっぱいになったので、別の枠に巻き取り、ついには二三百の枠に巻き取ったが、まだ尽きることがない。そこで今度は桶に巻いてそれが四五千兩にもなったところで、糸はようやく尽きて、犬も倒れて死んだのだった。それを見て妻は、「これは神仏が犬になって助けてくださるのだ」と思い、家の裏庭の桑の木の下に、犬の死体を埋めた。
この糸をどのようにして紡ごうかと思い煩っていると、夫が物のついでにこの家を通りがかった。門の前を通りながら見れば、家の中はさびしい気配で、人がいる様子もない。「ここにいた人はどうしたのだろう」と思うと、かわいそうになり、馬から下りて家に入ったところ、妻がただ一人で糸を紡いでいた。
これをよく見ると、自分の家の蚕が出す糸は黒くて節があり、質がよくないのに対して、この糸は雪のように白く、しかも光沢があって上等である。夫は大いに驚いてそのわけを問うと、妻はそれまでのことを包まず語った。それを聞いた夫は、「神仏が助けている人を、自分は粗略に扱ったものよ」と後悔した。そんなわけで夫はそのままとどまり、今の妻のもとへは帰らなかった。
犬を生めた桑の木には、蚕がひっきりなしに繭を作った。それをとって糸を引くと、めでたいこと限りない。
郡司はこの糸のことを国司に報告した。国司はそれを公に奏上した。それより後、この糸に犬頭糸と名づけて、天皇に奉った。いまだに天皇の御服はこの糸を材料にして作っているのである。
また一説には、今の妻が嫉妬して本の妻の蚕を殺したという話もあるが、真偽のほどは明らかではない。
殺された女性の死体から穀物が生え出てくるという話は、インドネシアのハイヌウェレ伝説や日本のオオゲツヒメ伝説に見られる。第11話のこの物語は、それを犬に置き換えて、良質な絹糸の起源を、神話風に語ったものだ。
男が二人の妻の間を行ったり来たりしているが、これは、妻訪婚を反映していると考えられる。
今は昔、參河の國□の郡に一人の郡司有りけり。妻を二人持ちて、其れに蚕養をせさせて、糸多く儲けける。而るに、本の妻の蚕養、いかなる事の有りけるにか、蚕皆死にて、養ひ得る事無かりければ、夫もすさまじがりて寄り付かず成りにけり。されば從者共も、主行かず成りにければ、皆行かず成りにければ、家も貧しく成りて、人も無く成りぬ。されば、妻只一人居たるに、從者僅か二人ばかりなん有りける。妻、心細く悲しき事限り無し。
其の家に養ひける蚕は皆死にければ、養蚕絶えて養はざりけるに、蚕一つ桑の葉に付きて咋ひけるを見付けて、此れを取りて養ひけるに、此の蚕、只大きに成れば、桑の葉をこき入れて見れば、只咋ひ失ふ。此れを見るに、哀れに思えければ、掻撫でつつ養ふに、「此れを養ひ立ててもいかがはせむ」と思へども、年來養ひ付けたる事の、此の三四年は絶えて養はざりけるに、此く思はずに養ひ立てたるが哀れに思えければ、撫で養ふ程に、其の家に白き犬を飼ひけるが、前に尾を打振りて居りけるに、其の前にて、此の蚕を物の蓋に入れて桑咋ふを見居る程に、此の犬、立ち走りて寄り來て此の蚕を食ひつ。あさましく、妬く思ゆれども、此の蚕を一つ食ひたらんに依りて、犬を打ち殺すべきに非ず。
然て、犬、蚕を食ひて、呑み入れて向ひ居たれば、「蚕一つをだに養ひ得で、宿世なりけり」と思ふに、哀れに悲しくて、犬に向ひて泣き居たる程に、此の犬鼻をひたるに、鼻の二つの穴より、白き糸二筋、一寸ばかりにて指し出でたり。此れを見るにあやしくて、其の糸を取りて引けば、二筋ながらくるくると長く出で來たれば、わくに卷き付く。其のわくに多く卷き取りつれば、亦、異わくに卷くに、亦口ぬれば、亦このわくを取り出だして卷き取る。此くの如くして、二三百のわくに卷き取るに、尽きもせねば、竹の棹渡して絡り懸く。尚、其れにも尽きせねば、桶共に卷く。四五千兩許卷き取りて後、糸のはて絡り出だされぬれば、犬倒れて死ぬ。其の時に妻、「此れは佛神の犬に成りて助け給ふなりけり」と思ひて、屋の後に有る畠の、桑の木の生ひたる本に、犬をば埋めつ。
さて、此の糸をば細め遣るべき方無くして、わづらふ程に、夫の郡司物へ行くとて、其の門の前を渡りければ、家の極めて□氣にて、人の氣色もなければ、□に哀れと思ひて、「此こに有りし人、いかにして有らん」と、いと惜しく思ひければ、馬より下りて、家に入りたるに、人もなし。只、妻一人、多くの糸を繚ひ居たり。此れを見るに、我が家に蚕を養ひ富みて絡り懸くる糸は、黒し、節有りて悪し。此の糸は雪の如く白くして、光有りてめでたき事限り無し。此の世に類なし。郡司此れを見て大きに驚き、「此はいかなる事ぞ」と問へば、妻、事の有樣を隠さず語る。郡司、此れを聞きて思はく、「佛神の助け給ひける人を、吾愚かに思ひける事」を悔い、やがて留まりて、今の妻の許へも行かずして棲みけり。
其の犬埋みし桑の木に、蚕、ひま無く繭を造りて有り。されば、亦、其れを取りて、糸に引くに、めでたき事限り無し。郡司、此の糸の出で來ける事を、國の司□と云ふ人に語りて出だしたりければ、國の司、公に此の由申し上げて、其れより後、犬頭と云ふ糸をば、彼の國より奉るなりけり。其の郡司が孫なむ傳へて、今其の糸奉る竈戸にては有るなる。此の糸をば、藏人所に納められて、天皇の御服には織らるるなりけり。天皇の御服の料に出で來たりとなん、人語り傳へたる。
亦、今の妻の、本の妻の蚕をば構へて殺したる、と語る人も有り。慥かに知らず。 此れを思ふに、前生の報によりてこそは、夫妻の間も返り合ひ、糸も出で來けれと語り傳へたるとや。
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