明治村を歩く:美濃・尾張の旅

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明治村がオープンした昭和40年頃には、展示建物は10数点に過ぎなかった。それから40年を経た現在では60数点に増え、中には国の重要文化財に指定されているものもある。明治時代の建築様式を保存する場として、確固とした空間に成長したわけだ。

その明治村を筆者はこれまで訪れたことがなかったが、この度あひるの友達と訪れることとなった。美濃・尾張の旅三日目のことだ。

投宿先の名鉄ホテルを出て犬山遊園まで歩き、名電で犬山駅に至り、そこからバスに乗った。明治村まで40分ほどだ。村内に入るとほぼ同時に雨が降ってきた。リュックサックから傘を出して準備していると、一老人が近づいてきて、よろしかったら村内を案内しましょうという。聴けばガイドのボランティアなのだそうだ。是非なくお願いした。

村内は五つのブロックに分かれている。ブロックごとに一丁目から五丁目までの表示がされている。

一丁目をまずたずねた。ここは明治時代初期に建てられた牛鍋屋から始まって、尋常小学校、聖ヨハネ教会堂、鴎外・漱石が相次いで住んだ本郷の借家などがそれぞれ独立した区画の中に納まっていた。

二丁目は一本の道路にそって町屋を並べた配置になっている。道路沿いに、個人住宅、商家、銀行、郵便局などが並び、道路の突き当りには山梨県の群役所の建物が建っている。ひとつの都市空間としての体裁を演出しているわけだ。

ガイドさんは二丁目で引き返したので、三丁目から先は自分たちだけで歩いた。三丁目は品川灯台、四丁目は宇治山田郵便局、五丁目は芝居小屋呉服座がそれぞれ売物になっているようだ。

呉服(くれは)座は大阪にあった芝居小屋だという。当時の芝居小屋の建築様式を代表するものだそうだ。さして大きくはない内部空間は、独特の空間配置のせいで実際よりもはるかに大きく感じられる。

旅回りの歌舞伎一座や様々な民衆芸能の舞台となったらしい。面白いのは、幸徳秋水らがここを立会演説の会場に使ったということだ。芝居に限らず、様々な用途に用いられていたらしいことが、よく分かる。

五丁目の外れ、村の北端には帝国ホテルの正面玄関が復元されていた。ホールに立ち入ると独特の雰囲気が立ち込めるのを感ずる。一言で言えば、明治という時代の時代精神の雰囲気なのかもしれない。

ひととおり見物が終わったところで、浪漫亭という食堂に入った。外観もクラシックだが、メニューもクラシックだ。ジャワ風のカレーやインドネシア風のスチュー、またオムカレーと称する国籍不明の料理などもある。筆者はビールとインド風ドライカレーを注文した。

談笑やむことない時間の流れとともに、雨もなかなかやむ気配がない。





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このページは、が2011年6月26日 18:19に書いたブログ記事です。

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