カダフィはどのように死んだか

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昨日(10月20日)、長らく行方をくらましていたリビアの独裁者カダフィが、中部の町シルトで暫定政府側の兵士によって拘束された上、殺害されたとのニュースが世界中に発信された。シルトはカダフィの出身地であることから、闘争中のカダフィがこの町に潜伏している可能性が指摘されていたが、実際その通りだったわけだ。これで、2月に民衆の反乱から始まり、8ヶ月にわたって繰り広げられた内戦に、終止符が打たれることとなった。

カダフィはどのように死んでいったか、彼の最後の様子について、暫定政府のジブリール首相が、TIMEとのインタビューの中で答えた。

NATO軍や政府軍によって町が包囲された中で、カダフィは一部の護衛部隊とともに町を脱出しようとした。そこへNATO軍が空襲をかけた。カダフィは護衛部隊の兵士とともに車を脱出し、配水管(直径1メートル)の中にもぐりこんだが、暫定政府側によってすぐに発見された。

暫定政府の兵士の証言によれば、発見されたときのカダフィは腰にレボルバーを装着していたが、おとなしく逮捕されたという。政府側は逮捕したカダフィを、トラックに積み込もうとして、カダフィを囲みながら歩いていったところ、カダフィ側の兵士と暫定政府の兵士との間で射撃の応酬が起こり、この応酬の中で、カダフィは胸など複数の部位に銃弾を浴びて死亡したということだ。

暫定政府側には、カダフィを生きたままとらえて、国際法廷に引き渡したいという意向がかねてあり、現場の兵士たちも当初はその意向にそった行動をとっていたようだが、カダフィ側の兵士との間で銃撃戦がおき、その結果カダフィも射殺されたということだ。

カダフィの遺体は、トリポリへは運ばず、ミスラタで死の翌日埋葬されることになった。イスラムの掟では、日中に死んだものは、その日の日没前に埋葬するのがしきたりであるが、今回は時間がとれずに特例的な措置となった。なお、カダフィの遺体を検分したものの報告によれば、カダフィは鬘をつけていたということだ。

カダフィの死後、リビアには本格的な国づくりが待っている。ジブリール氏自身は一定の時期がきたら身をしりぞき、本格政権には加わらない意向という。(写真はロイターから)





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このページは、が2011年10月21日 20:07に書いたブログ記事です。

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