半藤一利「ノモンハンの夏」を読む

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先日神保町の古本屋街を歩いているとき、半藤一利氏の著作「ノモンハンの夏」を見かけて買った。その直前に読んだ村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」に、ノモンハン事件の話が出てきて、筆者は非常に感銘を受けていたところだったので、結構厚い本だったが、読んでみる気になった次第だった。

村上春樹の小説の中のノモンハン事件と云うのは、無能で無責任な日本軍の首脳部と、勇猛果敢な第一線の兵士たちとのコントラストが強烈に迫ってくるというものだった。文学だから、読者の想像力をかりたてるさまざまな工夫が織り込まれているのは当然のことだといえるが、その工夫の先に、ノモンハン事件と云うものの本質が、ちらりと覗き見えてもいた。

半藤氏は歴史家であるわけだから、文学的想像力や人間的感情といったレベルとは異なった次元で、この歴史的な事件を取り扱っているのだろう、筆者はそのように期待して、この本を読み始めた。

読んでみて、期待をうらぎられることはなかった。半藤一利氏は昭和史の権威といわれるだけあって、この事件を、世界史の中に大局的に位置付けながら、関東軍を中心に当時の軍部がいかに無展望にこの局地的戦争をひきおこしていったか、壮大かつ微細に分析している。

半藤氏はまず、陸軍参謀本部作戦課の体質から書き始める。参謀本部作戦課はいうまでもなく、日中戦争から太平洋戦争へと展開していく壮大な戦争の最高司令部である。

ついで関東軍作戦課の体質について書く。関東軍作戦課はノモンハン事件を引き起こした直接の当事者である。

以上二つの作戦課について書くことで、半藤氏はノモンハン事件が、いかに無展望で、無責任で、無能力な連中によって引き起こされたかをあぶりだしていく。軍の中枢部の無能によって第一線の兵士たちがいかに無駄な死を死ななければならなかったかは、村上春樹の小説と同じ問題意識の地平上にたつ論点だ。

参謀本部にしろ、関東軍にしろ、自分たちの直面する戦局と、それを制約するさまざまな状況について、科学的で実証的な認識を持たず、空虚な精神論によりかかっただけの、原始的な姿勢で戦争に臨んだ点は共通している。日露戦争の勝利神話を唯一のよりどころとして、ソ連に対して正確な認識を持とうとせず、ロシア人は無能で臆病な連中だから、日本兵の前では簡単に屈服するはずだ、こうした思い込みにとらわれたまま、ろくな準備もせずに、強大な軍事力を用意していたソ連軍を前に、全滅に近い敗北を喫した。これが氏の厳しい見立てである。

こうした軍事上の視点に、氏は当時の日本が置かれていた国際的政治情勢についての考察を絡ませていく。

世界史上における当時の政治状況の最大のポイントは、列強が次第に英仏米を中心にした民主主義的勢力と、ナチス・ドイツとイタリアを中心にした反民主主義的勢力とに分化しつつあったということだ。この中で日本は、明治以来の同盟国であったイギリスとその友好国であったアメリカとの友好的な関係を振り払って、ドイツやイタリアと同盟を結ぶべきだとの主張が高まっていた。

こうした中で、ソ連との関係が緊張しつつあった。日本は満州を事実上属国にすることで、やはりモンゴルを事実上の属国にしていたソ連との間に、深刻な国境問題を抱えることになった。ノモンハン事件とは、そうした国境紛争が局地的な戦争に発展したものだったのだ。

この局地戦争に対する日ソ両国の取り組みを比較すると、そこには戦争遂行にとって本質的に重大な問題が浮かび上がってくる。ソ連側がこの局地戦争を、国を挙げての重要な戦争として、万全な対策をとって臨んだのにたいして、日本側は終始無責任で場当たり的な対応で臨んだ。これでは前線の兵士たちの士気がいかに高くても、到底勝ち目はない。残念ながらそう思わざるをえない。

スターリンがもっとも恐れたのは、ヒトラーとの間で戦争が始まるのと同時並行して、日本軍と戦わねばならぬ状況に追い込まれることだった。二正面の戦争を強いられることは、古来もっとも避けるべき事態だと認識されてきたのである。それ故、ソ連側には、西部戦線の動向がはっきりするまでは、日本との全面戦争を避けようとした努力が伺われる。

スターリンは、ヒトラーとの間で不可侵条約が成立し、西部戦線の憂いが無くなったことを確認したうえで、兵力を東部戦線に集中し、日本との戦争に臨んだのである。

これに対して日本側は、中国大陸本土での戦争を遂行中であり、対ソ連との戦争は二正面戦争の不利を強いられるのだということを、本気で憂慮した形跡がない。漫然と戦争を始めたとしか言いようがないのだ。であるから、展望も何もない。ただいきあたりばったりに兵を動かすだけだった。

それでも戦争が始まった5月から6月にかけては、日本軍は良く戦い、ソ連側に多大な損害を与えた。この時期には日本側が制空権を握り、戦闘を優位に進めることができたし、ソ連側の装備が非近代的で、日本兵の攻撃にもろかったという事情もあった。

しかし7月から8月にかけ、戦争が長引くと、ソ連が戦力を充実させて襲い掛かってきたのに対し、日本側は、兵力も装備も食料も補充がない。そのうちに制空権をソ連側に奪われ、日本軍は各地で孤立して、ソ連側の標的になっていった。

8月20日から数日間にわたった最後の戦闘は、日本側にとって、まさに地獄ともいうべきひどい有様を呈した。この戦闘での日本側の損失は、第6軍軍医部調整の資料によれば、第2次ノモンハン事件(8月の戦闘のこと)に関して、出動人員5万8925人、うち戦死7720人、戦傷8664人、戦病2363人、生死不明1021人、計1万9768人となっている。

第23師団に限って言うと、全期間を通しての出動人員1万5975人に対して、損耗(戦死傷病等)したのは1万2230人、実に76パーセントにも達した。これはほぼ全滅に近い損耗率である。

だが日本にとって幸いだったといっていいのか、よくわからぬが、ソ連側は適当なところでの停戦に応じた。スターリンには、まだ日本との間で全面戦争する意欲が成熟していなかったことが基本的な理由だとされる。スターリンは日本をこっぴどくやっつけてこれ以上の戦闘意欲をそぐことができたと確認できれば、それでよかったのだ。あとは、ナチスとの間で成立した不可侵条約をもとに、ポーランドの東半分を侵略し、バルト三国を属国にし、フィンランドに侵入することが最優先の課題となった。

ノモンハン事件という日ソ間の局地戦は、その名の通り局地的な小競り合いといってもよいものだが、それにとどまらぬところもある。

この戦争は、無能で、無責任で、無展望な軍の指導層が引き起こした無謀な戦争であったという点で、太平洋戦争全体の縮図ともいえる性格を持っている、そういえるのではないか。


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このページは、が2011年10月24日 20:09に書いたブログ記事です。

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