「アントニーとクレオパトラ」は、アントニーが自殺する第四幕を以て終了させてもよかった。ところがシェイクスピアは第5幕を書いた。だがそれは、附けたしというには重い内容を含んでいる。そこでテーマになっているのは、クレオパトラのアントニーに対する義理立て、別の言葉でいえば女の意地のようなものなのだ。
アントニーが敗れた後、クレオパトラは自分と自分の国エジプトとが、オクタヴィアスの意のままになったことを十分に知っている。そんなクレオパトラに、オクタヴィアスは慈悲の言葉をかけたりもするが、クレオパトラはそれが真心からのものでないことも知っている。彼女にはもう、この世に生きているための場所はないのだ。
だから彼女にとって選択肢は二つしかない。小シーザーによってもてあそばれるか、自分自身の手でこの世から消えていくかだ。当然のことながら彼女は、自殺することを選ぶのだ。
クレオパトラ:いいか 私は何も食べぬ 何も飲まぬ
それに付け加えて 眠ることもせぬ
この死すべき肉体は自分の手で始末する
シーザーには手出しさせぬ
CLEOPATRA:Sir, I will eat no meat, I'll not drink, sir;
If idle talk will once be necessary,
I'll not sleep neither: this mortal house I'll ruin,
Do Caesar what he can.(5.2)
しかし、小シーザーは使者を送って何度も申し出をする。彼女をエジプトの女王に相応しく、丁重にもてなおそうという申し出だ。だがクレオパトラはそんな言葉を信じない。小シーザーの手に身をゆだねることは、自ら淫バイの身に落ちることを意味する。
クレオパトラ:いや 確かなことだよ イラス
小生意気な役人たちが私たちを淫バイのように見下し
乞食詩人が私たちを調子はずれな小唄にし
三文役者が私たちを芝居のネタにし
アレクサンドリアの宴を舞台に載せるだろう
アントニーはよっぱらい役で登場させられ
クレオパトラに扮した小僧が黄色い声をあげて
娼婦の仕草を演じて見せるだろうよ
CLEOPATRA:Nay, 'tis most certain, Iras: saucy lictors
Will catch at us, like strumpets; and scald rhymers
Ballad us out o' tune: the quick comedians
Extemporally will stage us, and present
Our Alexandrian revels; Antony
Shall be brought drunken forth, and I shall see
Some squeaking Cleopatra boy my greatness
I' the posture of a whore.(5.2)
こうしてクレオパトラは、エジプトの女王としての尊厳のうちで死ぬことを選ぶ。親しくしていた道化に手伝ってもらい、毒蛇にかまれて死ぬことを選ぶのだ。
そんなクレオパトラを、道化は感心したように眺める。女というものは、人並みの人間の手ではいかんともしがたい、それは神様の召し上がりものだ。だから、シーザーがクレオパトラを思い通りにできなくても、何ら不思議はない、というわけだ。
道化:いやはやわしはそんなにお人よしではござらぬ
わしだって女は悪魔も食わぬということくらい知っておりますぞ
女というものは神様方の御召し物なのさ
Clown:You must not think I am so simple but I know the
devil himself will not eat a woman: I know that a
woman is a dish for the gods, (5.2)
死にゆくクレオパトラは、アントニーの妻の資格において死んでいくことを望む。二人は正式に結婚したわけではないが、心の中では強く結ばれていた。その絆はこの世では結ばれることはなかったが、永遠の中で結ばれ続けるだろう。
クレオパトラ:我が夫よ いざ
勇気をもって あなたの妻たるに恥じないようにいたします
CLEOPATRA:Husband, I come:
Now to that name my courage prove my title!(5.2)
クレオパトラのこの言葉で劇は完結する。不幸な中年男女の最後を飾るに相応しい言葉ではないか。
関連サイト: シェイクスピア劇のハイライト
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