狂言「木六駄」

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狂言「木六駄」は、和泉流と大蔵流とで演出の仕方がだいぶ異なっている。筋書きも異なっているところが多い。

共通する荒筋をいうと、主人から叔父への進物を運んでいくように命じられた太郎冠者が、雪の降る中、峠の茶屋で一休みし、そこで進物の酒を飲んでしまうばかりか、大事な荷物まで茶屋にくれてしまい、使いの用をなさなくなってしまうというものである。

相違をあげるといつくかある。まずシチュエーションだが、大蔵流では峠の名も主人たちの在所も明示されていないのに対し、和泉流では主人は丹波に住み、叔父は京に住むことになっている。太郎冠者はだから、牛たちに荷を積んで丹波を出発し、老いの坂峠を超えて京へ行くことになっている。実在する場所が背景になっているわけだ。

大蔵流では太郎冠者が運ぶ荷は木が六駄ということになっているが、和泉流ではこのほかに炭六駄を運ぶことになっている。

こうして太郎冠者が峠の茶屋に立ち寄り休憩するシーンの中で、茶屋と二人で酒を飲んだり、気前よく六駄の木を茶屋にくれてやったりするわけだが、大蔵流ではこれに先駆けて叔父が茶屋に立ち寄り、裏手の部屋で寝ていることになっている。叔父は茶屋の表に出てきて、酔いつぶれている太郎冠者を見出し、その所業を追求するわけである。これに対して和泉流では、太郎冠者は残った荷物の炭六駄だけを運んで行き、叔父から残りの荷物はどうしたのだと追及される。

筋が変化に富んでいるので、狂言としては長い時間がかかる。また、途中に狂言小謡をさしはさむなど、演出に工夫を加え、華やかさをも感じさせる。見ていて面白い作品だ。

見どころは、太郎冠者と茶屋が酒を飲む場面だ。叔父への進物であるから、それを飲むのは良くないと太郎冠者はいうのだが、茶屋が屁理屈をつけて飲ませてしまう。いったん酒が入って気持ちの大きくなった太郎冠者は、茶屋にも酒を振る舞い、謡ながら小舞をする。

以下山本東本から、その場面を紹介しよう。

茶屋「そなたの背負うているそれはなんじゃ。
太郎冠者「これは上々の諸白じゃ。
茶屋「それこそさいわいな。一つお飲みやれ。
太郎冠者「そなたはむさとした。これは頼うだお方の御進上物を、何と路次で飲うでよいものか。アア こごゆるわ、こごゆるわ。
茶屋「イヤのうのう、よう思うてもお見やれ。そなたがここでこごえたならば、お使の御用に立つまい。一つ飲うであたたまったならばよかろう。
太郎冠者「ウーン、まことにそなたのおしゃるとおり、ここでこごえたならば、お使の御用に立つまい。それならばそと一つ飲うであたたまるも、御奉公かの。
茶屋「その通りじゃ。
太郎冠者「ハハア、御亭主の分別は違うたものじゃ。それならば一つ飲もうか。
茶屋「それがよかろう。

茶屋「サアサア、飲むものを取って参った。
太郎冠者「一つついでおくりゃれ。
茶屋「心得た。ドブドブドブドブ
太郎冠者「オオ一つある。さらばたびょう。
茶屋「早う飲ましめ

こうして恐る恐る飲み始めた酒が気分を大きくし、二人は進物の酒をことごとく飲んでしまう。そして酒の肴に都小謡を披露しあう。

太郎冠者「ひとさし舞おうか。
茶屋「それはなおなおじゃ。
太郎冠者「あんの山から、こんの山まで、飛んで来るは何ぞろぞ、頭にふたつ、ふっふっとして、細うて長うて、うしろへ、りんとはねたを、ちょっと推した、兎じゃ。
茶屋「ヤンヤ ヤンヤ ヤンヤ さてさて面白いことじゃ。今の骨折りにそなたへさそう。

キリは伯父による太郎冠者への追及に、太郎冠者がとぼけてみせるところだ。叔父への書状の中に書かれていた木六駄とは自分の名だといって、ごまかそうとする太郎冠者をきびしく責めるのだ。

伯父「ヤイヤイ、この木六駄はどれにあるぞ。
太郎冠者「エエ、その木六駄は、すなわち、これに笑う者でござる。
伯父「何と。
太郎冠者「頼うだ人申されまするは、そちは今に定まる名がない、これからは木六駄と呼ぶ、と申されまする。御普請の御見舞に、この木六駄進じ候、でござる

最後は怒った叔父の「やるまいぞ、やるまいぞ」をうけて、太郎冠者が「ゆるせられい、ゆるせられい」といって逃げるところで終わる。(写真は和泉流の演技)


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